<湖北省・宜昌―――これほど静かな夕暮れを私は知らない>
奉節は白帝城で知られる。宜昌は三峡ダムで知られる。この奉節と宜昌が三峡を挟む。奉節が入り口なら、宜昌は出口。宜昌が入り口なら、奉節は出口。十九世紀、英仏の蒸気船が長江を遡航し始めた当初から、彼らは長江を三つの部分に分かち捉えようとした。河口から漢口までの四百五十キロ。漢口から宜昌までの二百七十キロ。そして、宜昌から重慶までの二百五十キロ。
重慶は彼らにとって航行の事実上の終点であった。そして、漢口までは、河幅も十分に広い。水深もある。しかも、漢口は長江と漢水の交わるところ、大きな港が建設できる。
宜昌はどうか?
宜昌は、ちょうど漢口と重慶の中間。当時、大型の商船が遡航できる最後の港であった。ここから先は、激流渦巻く三峡。宜昌まで運ばれてきた物資はここでジャンクに積み分けられ、四川へ上った。奉節、万県、重慶へと。
逆から言えばこうだ。重慶、万県、奉節と幾多の流れを集めつつ怒濤の水量をもって駈け下ってきた長江が、河幅を一気に広げるところ。重慶以来重畳として前後左右に迫ってきた山々は、ここでまさに尽きんとする。流れも、ここで憩う。危険に棹さし急流をジャンクで下ってきた人々は、ここへ至り、安堵の溜息を吐くのである。
河も憩い、人も憩う。それが、宜昌。
その地理的な位置ゆえに、さまざまな歴史を背負ってきた。古来、兵家必争の地であった。遠くは三国時代、劉備玄徳が関羽の仇を討つため呉を攻め、却って大敗を喫しついには身を滅ぼす因となるのが「夷陵の戦い」。その「夷陵」が今の宜昌である。近くは日中戦争期。上海、南京、武漢と攻め上った日本軍の行く手を阻んだのが三峡の激流と大巴山脈の峨峨たる山並みであった。蒋介石は重慶へ逃げ込む。しかしこれ以上は追う道がない。そこで考え出されたのが重慶への空爆であり、空爆の爆撃機を援護するための新型戦闘機の投入であった。その新型戦闘機が零戦であり、そして、その零戦の発進基地として確保されたのが宜昌の飛行場であった。重苦しい歴史がある。
そんなことを知ってか知らずか、長江は憩うようにゆったりと流れ、宜昌の街は静かに暮れて行く。「夕暮れはどこの街にも来るのだろう。しかし、宜昌の夕暮れほど静かに暮れる夕暮れを私は知らない」。こんなフレーズが、フト、浮かんだ。なんとも詩人のようだ。こんなところに身を置くと、誰でも自分が詩人であるかのような錯覚に陥るものなのだろうか。
とっぷり暮れたところで夕食にした。詩人にも食事が必要だ。地元の知人が案内をしてくれたのは屋台。「和田さん、宜昌に来たらこれを食べなくっちゃ」と言われて出されたのはスッポン鍋。唐辛子で表面が真っ赤になった鍋にスッポンがぶつ切りにされてでてきた。味がどうとか言う前に、先ず辛い。ひとくち口に含んだだけでも全身がカァーと熱くなり顔から汗が噴き出す。ふたくち含むと、頭が痛くなる。みくち含むと、涙が止まらない。
「そうそう。和田さん、宜昌に来たらこれを飲まなくっちゃ」と出されたのは「枝江大曲」という地元の白酒。汗と涙と五十度を超える酒で夜は更けて……。「少しも詩人らしくなくなっちゃったな」なんて思いながら。
宜昌に三泊した。翌日も、夕暮れには長江の河辺で詩人になった。「これほど静かな夕暮れを……」。夜は屋台で、二日目も鍋。唐辛子で赤いことは一緒。ただ中身は代わって川魚。三十センチを越える大きな魚がぶつ切りになって真っ黒な鍋に投げ込まれていて。また、汗と涙と五十度を超える白酒で夜は更けて、「詩人らしくなくなっちゃったなあ」。
三日目も、夕暮れには詩人になって、夜は唐辛子の鍋で、中身は鶏一羽がまるまるぶつ切りになっていて。汗と涙と五十度を超える白酒に詩人ではなくなって。
静かに暮れるのが港町なら、このグジャグジャも港町。
長江沿いに港町があって、重慶や万県のように山の中の港もあれば、南通のように海のような港もある。でも共通しているのは、水が流れていること。流れることが常。人々の生活も、猿を連れた大道芸人も、大きな荷物を担いだ行商人も、夜逃げも、駆け落ちも誰もが流れていて出会いがあり別れがある。長江沿いの港町には、何とも言えぬ旅情がある。そんななかでも、宜昌は忘れられない港町のひとつだ。静かに暮れる夕暮れと怒濤の火鍋で。
(「北京トコトコ」2003年10月号に掲載)