<四川省・成都>
時間がゆっくりと流れ、そのなかで人々がゆったりと生きている。そういう町である。
「三国志」の劉備が都とした。杜甫が流浪の生涯にあって、最も安定をした四年を過ごしたのもこの地であった。古来「天府の国」と称されてきた豊さゆえのことだろう。余裕と落ち着き。そんな雰囲気が街を包んでいる。
「茶館」というのがある。人々はそこで竹のイスに座り、蓋付きの大きな湯飲みでお茶を飲む。何もせずボーっとしている人。新聞を広げている人。仲間でトランプに興ずる人。両手にサンダルを持った男がテーブルを廻っている。靴磨きだ。呼ぶと、サンダルに履き替えさせ靴をもってゆく。二十分ほどすると磨き上げてもってくる。靴磨きにもこの町独特の悠長さがある。
キセルのような長い金属の棒を持った男もいる。何かと思ったら、耳の垢とりだという。耳の気持ちよさだけではなかろう。余裕を楽しんでいるという心地よさなのだろう。
何もしないという贅沢……。それにしても、何という時間の浪費。私には少々ショックであった。特に、その日、重慶から車でやってきたせいもあったのかも知れない。重慶は水運の街だ。人々は身体を張って生きていた。裸一貫、竹の天秤棒一本で荷を担ぎ港の階段を上り下りする人々の群れを見てきた。それが三時間しか離れていない成都へ来たら、茶館だ。同じ竹がイスにもなれば天秤棒にもなる。そういう驚きだ。
私も彼らにならい無為の時を過ごそうとしてみた。しかし、一時間がせいぜいで、彼らのように四時間もボーっとしていることなど、とてもできない。浪費?それとも贅沢?私の疑問に、地元の友人はこう答える。「どちらにしてもですよ、浪費でない時間なんてあるでしょうか」。
茶館は今でも謎である。
(中日新聞・東京新聞の2002年9月1日日曜版に掲載)