目次
成都
臥龍
黄龍
九寨溝
大足
自貢
楽山
峨眉山
宜賓
広元
ロウ中

 
===四川省===
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《成都市》(せいと)
 四川省の省都。四川盆地の西部に位置し、温順な気候、豊かな水脈にも恵まれ、古来より物産の豊富な地であった。「天府の国」という。
 劉備玄徳がこの地に蜀漢の国を建てたのは、三国時代221年のこと。また、杜甫がこの地に庵をあみ放浪の人生にあって比較的落ち着いた生活を送ったのは八世紀のこと。
 四川料理の本場でもある。「麻婆豆腐」や「担々麺」など日本人にも馴染みの料理は多い。ただし、唐辛子や山椒の効かせ方はチョット違う。シビレます。

<杜甫草堂>(とほそうどう)
 成都市の西郊、浣花渓の河畔にある。杜甫(712〜770)の邸宅の跡地。
 北宋の元豊年間(1078〜85)に茅屋を再建し、祠を設け、元、明、清と改修を重ね現在の規模になった。
 20ヘクタールほどの庭園に梅・樟・竹が生い茂り、渓流が流れ橋が架かり、成都らしい緑の濃い独特の雰囲気がある。そのなかに、大鹿・詩史堂・柴門・工部祠の建物が並ぶ。
 杜甫は安史の乱ののち、乾元2年(759)に成都に左遷され、当所に四年ちかく住む。この地で詠まれた詩は240首余りという。「茅屋秋風の破る所と為る歌」などがそうである。

<万里橋>(ぽんりきょう)
 成都市の市街南部、錦江に架かる。かつて船に乗って東航するときの起点であった。三国時代に蜀の費キ(?〜253)が呉に使者として赴くさい、諸葛孔明(181〜234)がここまで見送ってくると、費キが「万里の行も此の橋より始まる」といったのにちなみ、「長星橋」から「万里橋」に改名されたとされる。現在は更に改名され「老南門大橋」となっている。
 杜甫が成都に滞在中に創った詩の一節の、「窓には含む西嶺千秋の雪、門には泊す東呉万里の船」という下りを連想させる。南京なのか揚州なのか呉の船が、長江から岷江、岷江から錦江の河を遡り成都にまできていたということである。

<武侯祠>(ぶこうし)
 成都市の南郊にある。諸葛孔明の祠堂。
 面積3万7000平方メートル。西晋代末期,十六国の成漢(304〜347)の李雄(在位304〜334)が三国の蜀の丞相であった武侯諸葛亮を記念してに創建。のちに現在地に移し、蜀の先主劉備(161〜223)の昭烈廟に隣接するところとなった。明代初期に昭烈廟に吸収された。従って、大門の横額には「漢昭烈廟」とある。勿論、劉備が主君でありるのだが、人々の諸葛孔明を慕う気持ちが強いことから、孔明のおくりなである「忠武侯」から「武侯祠」と呼び慣わされている。
 現存の殿宇は清の康煕11年(1672)のもの。
 杜甫(712〜770)が「蜀相」で「丞相の祠堂何れの処にか尋ねん、錦官城外柏森森たり」と詠じているように、柏の老木が生い茂り、幽雅な雰囲気に包まれている。の漂うなか、青瓦と赤壁が見え隠れし、雄壮た殿宇がそびえる。
 正門を入ると劉備殿。金泥の劉備像が置かれ、東西の配殿に関羽・張飛らの塑像が、更には東西の回廊に蜀の28人の文官と武将の塑像が並べられている。各塑像の前に略歴が記されているので三国志演技を思い出しながら見ると楽しい。
 劉備殿の奥にあるのが諸葛亮殿。中央に金貼りの武侯像,その左右に子どもの諸葛購と孫の諸葛尚の塑像を安置されている。
 諸葛亮殿の西側に劉備の恵陵がある。封土の高さ12メートル。周囲は円く壁がめぐらされている。

<望江楼公園>(ぼうこうろうこうえん)
 市の東南の郊外にある。錦江の南岸にある。唐代の女流詩人・薛涛ゆかりの公園。
 770年に成都で誕生。早く父をなくし、楽妓に身を落すことになるがやがて詩の才能が認められ、同時代の詩人白居易、元槇らに賞賛される。
 また、この公園は竹の公園としても知られる。正門を入ると、目に入るのは道の両側にびっしり植え込まれている各種の竹。130余りの種類が植えられており、中国内で竹の品種の一番多い公園となっている。

<都江堰>(とこうえん)
 戦国時代の紀元前三世紀、今から2300年も前に造られた治水施設である。成都の北西59キロ。岷江の氾濫を防ぐために時の蜀の郡守・李冰が指揮を執って始めた。流れの中に堰きを入れることで、水量により自動的に本流へ流す水と、内江に取り込み潅漑用に用水路に取り込む水を調整しようとするもの。
 これにより、洪水を防ぐことが出来たにとどまらず、成都盆地全体を潤すことになった。「天府の国」を造ったのは都江堰だと言う。

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《臥龍》(がりゅう)
 臥龍自然保護区は面積は20万ヘクタール。四川盆地と青蔵高原にまたがり、生息する動物・植物の種類は極めて多い。獣類は60種、鳥類は300種、植物は3000種という。
 保護区内には標高五千メートル以上の高山もあり、自然がそのままに残され、残された数少ない ジャイアントパンダの生息地としても知られている。
 最高峰は四姑娘(スークーニャン)。標高6250メートル。氷河も見られる。

<臥龍パンダ研究センター
 四川省といえばパンダ。1983年にWWF(世界自然保護基金)と中国政府の協力で臥龍自然保護区に造られたパンダの保護・繁殖設備。設立当時は4頭だったパンダも今では繁殖に成功し40頭ほどに増えている。
 パンダは今、世界におよそ1000頭しかいないと言われる。絶滅の危機から救うことが出来るかどうか。「臥龍パンダ研究センター」に寄せられる期待は大きい。

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《黄龍》(こうりゅう)
 世界遺産に登録されている風景区。成都の北400キロ。アパ・チベット族羌族自治州にある。
 雪宝山の麓。海抜3100メートルの地点に、樹海に囲まれ、緩い傾斜の斜面に池が段々畑のように連なっている。池の色はエメラルド・グリーン。池の底が、地上に露出した石灰岩であるためにそういう色になる。池の数は3400。その長さは七キロ半。
 そのエメラルド・グリーンも池の深さ、光の当たり方で水の色は変化し、俗に「五彩池」とも言われる。まことに幻想的な風景。

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《九寨溝》(きゅうさいこう)
 世界遺産に登録されている風景区。一帯に九つのチベット族の村落があるために九寨溝と名付けられた。
 岷山山脈にあり、40キロにわたり深い渓谷が続く。山々が折り重なり、その山々は原始林に覆われ、それらを取り囲むように四季雪を戴いた高峰が連なる。
 その渓谷に沿って無数の湖や滝が点在する。湖の数は100余り。水は澄み、湖面は鏡のように静かである。湖底にまだら模様の岩石が沈積しているために光の当たり具合で藍色、黄色、緑色に変化する。
 懐深く原始林に分け入り、水と光の織りなすハーモニーを聞くような風景に身を浸すことができる。
 黄龍とならび中国が世界に誇る風景区である。

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《大足》(だいそく)
 石窟の街。成都から280キロ、重慶からは170キロ。唐末期から南宋の時代にかけて周辺の山々の40カ所に五万体の石像が彫られたと言う。石刻の仏像群というのは中国各地にあるが、その中でも大足のそれは規模においても芸術性の高さににおいても注目に値する。なかでも代表的なのは宝頂山と北山の石像群である。

<宝頂山>(ほうちょうざん)
 大足県の県城東北15キロにある。「上りて峨媚に朝し、下りて宝頂に朝す」といわれる。ともに仏教徒にとって聖地である。
 その言葉の通り仏像の石刻が多い。石刻は十三か所あり。大小あわせて一万余りの造像がある。彩色豊かな石刻像に加え、お経の内容を物語風に仕立てた造形もあり、唐・宋時代の人々の生活様式を反映させているてんでも興味深い。
 なかでも規模が大きいのは、大仏湾と小仏湾。特に、大仏湾の涅槃像と千手観音像は必見。

──大仏湾(だいぶつわん)
 馬蹄型の山湾に、長さ500メートル、巌の高さ15〜30メートルの岩場に東・南・北三3面に彫られている。まず小仏湾に彫って雛型とし、そののちに大仏湾に彫った。大型の石像は30余りで、なかでの壮大なのは釈迦涅槃像。全長31メートルある。

──千手観音像(せんじゅかんのんぞう)
 宝頂山の大仏湾の南崖の東端に彫られている。
 高さ三メートルで、蓮台に結蜘践坐し、宝冠をかぶり、荘厳な顔つきで合掌している。特徴的なのは、面積88平方メートルの岩壁に1000本余りの手が壁いっぱいに彫られているという壮麗な構図である。
 それぞれの手に法物を持っているが、描かれかたが皆違い、ひとつとして同じものはない。

──小仏湾(しょうぶつわん)
 大宝楼閣ともいい,宝頂山の聖寿寺の傍らにある。宝頂山の主要な石刻のひとつ。大仏湾の石刻を彫った超智鳳はまず当所に彫り、その後、大仏湾に彫ったと言われる。
 当初は規模が大きかったが、のちに破損し,現存する造像は100体余り。

<北山石刻>(ほくざんせっこく)
 大足の街から西北に2キロ。北山にある。北山はもとは竜嵩山といい、唐代末期から造像を彫り始め、南宋の紹興年間まで250年余りにわたって彫り続けた。
 高さ7メートル、長さ500メートルの岩面に合わせて290の龕窟が彫られている。
 もっとも有名なのは「心神車窟」と呼ばれるもので、正面に仏陀、その左に浄宝瓶観音、右に多羅、左壁に文殊・玉印観音・如意珠観音、右壁に普賢・日月観音・数珠手観音が配されている。彫像は左右対称に配置され、全体で荘厳な雰囲気を醸し出している。

──多宝塔(たほうとう)
 北塔ともいう。500メートルの回廊を出ると到るのが多宝塔。南宋の紹興年間(1131〜62)の建立で、明・清代に改修。八角十三層の中空の密櫨式の煉瓦製の塔で、一辺の幅3メートル、高さ30メートル。

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《自貢》(じこう)
 四川盆地の南部。沱江の流域にあたる。塩水の井戸が多く、千年にわたりその井戸水から塩を精製してきた歴史を持つ。塩都と呼ばれる。  自貢はまた、「恐竜の郷」としても知られる。周辺の40カ所以上の場所から恐竜の化石や恐竜の卵の化石が発掘され、一部は「恐竜博物館」に展示されている。

<シン海古塩井>(しんかいこえんせい)
 自貢市の大安塩廠のなかにある。清の道光3年(1823)に井戸を掘り始め、同9年に完成して稼動を始めた。深さ1001.4メートル。
 工場は他の井戸からの塩水で塩の精製は行っているが、この井戸自体はすでに使用していない。

<西秦会館>(せいしんかいかん)
別称を関帝廟、俗称を陳西廟といい、自貢市の市街にある。清代初期に陝西省から商人がやって来て塩業を営み大きな成功をおさめた。それらの塩商が乾隆元年(1736)から16年の歳月と5万両余りを費して建立。
 面積は3000平方メートル。建物は典型的な清代の建築様式。
 1959年になかに「自貢市塩業歴史博物館」を開設。

──塩業歴史博物館(えんぎょうれきしはくぶつかん)
 自貢地区を中心とする井塩(塩分を含む井戸水からつくる塩)の生産技術の発展史を収集・整理・研究する専門博物館。資料と生産工具の展示を通じ、井塩生産の長い歴史と井塩の生産技術の発展が理解できるようになっている。
 トウ小平の提案によって開設し、郭沫若が館名を揮毫。

<恐竜博物館>(きょうりゅうはくぶつかん)
 自貢地区は地殻変動で、中生代の地層が露出していることから、ジュラ紀の恐竜の化石が豊富に発掘される。当博物館に展示されているのは、体長一メートルから十三メートルまで、大小十数体の恐竜が展示されている。

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《楽山》(らくざん)
 四川盆地の南西部。岷江、青衣江、大渡河の三つの流れの交わるところ。岷江を見下ろす崖に彫られた楽山大仏で知られる。成都からは高速道路が出来ており、132キロ。古くは嘉州といった。

<楽山大仏>(らくざんだいぶつ)
 凌雲山を背にして岷江を見下ろすように座している。唐の時代、治水と航行の安全を祈願して、九十年の歳月をかけて彫られた。完成は803年。
 高さ71メートル、幅29メートル。ユネスコ世界遺産にも指定された中国最大の石刻坐佛である。足の甲に100人が乗れるという。
「山は佛、佛は山」と言われるようにひとつの山ごと仏像になったような堂々とした構えである。

<凌雲寺>(りょううんじ)
 楽山大仏に隣接。創建は唐の時代。寺のある凌雲山から望む岷江の流れの美しさは古来多くの詩人に詠まれている。北宋の詩人・蘇東坡曰く、

生まれて万戸の候に封じられるを願はず
韓の荊州と知り合うことも願はず
ただ願うは、漢嘉の守りになり
酒を載せて時に凌雲に遊ばんことを

<麻浩崖墓>(まこうがいぼ)
 後漢時代に断崖に掘られた陵墓。凌雲山と烏尤山に挟まれた麻浩湾の岸壁にある。公開されている一号墓は幅11メートル、奥行き30メートル。墓門、享堂、墓堂、棺堂の四つの部分からなる。壁には羊、虎、人の彫刻が彫られている。

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《峨眉山》(がびざん)
 四川盆地西端、青衣江の流域にあたる。楽山の西45キロ。標高3099メートル。
 西から東に向かって大峨、中峨、小峨と三山が連なる。北魏時代の地理書・水経注に曰く「山は成都を去ること千里。秋日、清澄なれば、両山を望見でき、相対峙すること蛾の眉のごとし」。仏教、道教ともに聖地とする。特に仏教では、四大名山のひとつとする(他の三つは、普陀山、九華山、五台山)。
 気象条件から霧に覆われることが多い。遠望しても、また、山に入り雲海のなかを歩いても、古来「仙境」と呼び慣わされてきたように、神秘的な雰囲気に満ちた山である。
 李白は青年時代しばしばこの山に遊び、「峨眉山月歌」という詩を残している。

峨眉山月  半輪の秋
影は平羌の江水に入りて流る
夜、清渓を発して三峡に向う
君を思えども見えず、渝州(ゆしゅう)に下る

 岷江は、平羌峡から楽山までを平羌江ともいう。この詩に言う「三峡」は長江の三峡のことではなく、嘉州(楽山の古名)三峡のことで、犂頭峡、背峨峡、平羌峡の三峡を言う。古来、岷江から長江に出るに避けられない交通の要路であり激しい流れで知られる。渝州は今の重慶である。

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《宜賓》(ぎひん)
 重慶から西へ280キロ。岷江が長江に注ぐ地点に開けた町。古くから長江上流の重要な港であった。岷江を遡れば成都に、また、長江(金沙江)を遡れば雲南に向かう。 長江は、宜賓から名を長江とする。それまでは、金沙江。そのため、宜賓は長江第一城の名を持つ。
 現在、中国の白酒で最も高級な銘柄は「五粮液」であるが、その産地が宜賓である。8平方キロという広大な敷地のなかで、1700名の従業員が24時間三交代制で働いている。五粮とは、米、とうもろこし、高粱、もち米、小麦の五穀を指す。五穀のブレンド具合と岷江の水が決め手という。
 工場では70度の、薄める前の原酒を試飲させて貰える。豊穣な味わいと香りがいつまでも残る。

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《広元》(こうげん)
 嘉陵江の上流。四川省北部にあり、陝西、甘粛の両省に隣接する。それだけに兵争の要地であった 。

<蜀の桟道>(しょくのさんどう)
 陝西省と四川省を結ぶ、かつては唯一の道。閣道、雲閣道とも言う。『史記』に「桟道千里、蜀漢に通ずる」という。秦嶺山脈の巍巍たる山が連なる。そこに桟道を造った。嘉陵江の絶壁に、横に梁をさしその上に板を敷いて道とした。
 秦の恵王の時代、蜀の王に「美女を金の牛を贈りたいが道がない」と言ったところ、蜀の王がそれ欲しさに桟道を造ったところ、実際に来たのは美女と金の牛ではなく秦の兵隊であった、という逸話が残る。金牛道ともいう。
 劉邦が鴻門の会のあと、項羽に追われ漢中に落ちて行くとき通るのも桟道であった。通りながら桟道を焼き、項羽と覇を競う意思がないことを示したという。
 また、三国時代、諸葛孔明が魏を撃つべく桟道を維修し三十万の軍隊を漢中・長安に向けて発したのも桟道を経由してであった。
 広元市の北20キロに朝天という地名がある。剣門蜀道の蜀側の基点である。安史の乱のおり、玄宗皇帝がやはり桟道を伝わり蜀へ逃げてきた、その際、広元の百官がここで天子に朝拝したという。
 さまざまな歴史に彩られた剣門蜀道であるが、現在は、明月峡と清風峡の絶壁に、朽ちた桟道の残骸と、観光用に新たに造られた参道が懸かっている。

<広元千仏崖摩崖造像>(こうげんせんぶつがいまがいぞうぞう)
 広元市の北4キロ。嘉陵江の東岸の岸壁に彫られた石窟群。四川省最大の規模を誇る。北魏から唐にかけて最も盛んに彫られた。
 南北200メートルの長さにわたり400余りの龕窟と7000体の造像が現存する。清の時代の石刻の題記によると1万7000体の仏像があったとあるが、道路を建設する際に破壊された。

<皇沢寺>(こうたくじ)
 嘉陵江の西岸、烏竜山の麓にある。もとは烏奴寺といったが、則天武后(623〜705)がこの地で生まれたことから皇沢寺と改称。則天武后は中国史上唯一の女帝である。
 寺の背後には皇沢寺摩崖造像がある。
 中国各地で龍舟競争というのは珍しくないが、広元では、則天武后にちなみ鳳舟競争が催される。かつては則天武后の誕生日とされた旧暦正月23日であったが、いまは9月1日(女児節)に行われる。

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《ロウ中》(門の中に良)
 明・清時代の町並みが街ごと残っている。全国でも珍しい。
 巴(重慶)の入り口にあたり、嘉陵江沿いの要衝の地であった。
 劉備玄徳は、益州(成都)を平定すると、魏の北方からの攻撃に備え、義弟の張飛をこの地に駐屯させた。219年に関羽が殺されたと聞くと劉備はただちに呉を撃つべく張飛を東征させようとしたが、張飛は出発前に部下に殺される。桓侯とおくりなされ、当地に葬られる。「張桓侯祠」が建てられている。

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