<浙江省・杭州>
「杭州は女性的な土地だ」。中国の人の間でこう言われる。「杭州からは大企業家は出ない」。こんなふうにも評される。褒めた言い方ではなかろう。そこには、杭州に対する一種のやっかみが潜んでいる。
杭州ほどその美しさを喧伝されてきた街はない。古来言う、天に天堂あり地に蘇州・杭州あり。「江南の憶い、最も憶うは是れ杭州」と歌ったのは唐の詩人白居易であった。
杭州といえば西湖。宋の詩人蘇東坡は西湖をこう讃えた。晴れた光のなかにあるもよし、雨に煙るもまたよし。西湖を西施にたとえれば、薄化粧厚化粧すべてよし、と。
二千年にわたり言葉を尽くしその優美さが讃え続けられてきた。人々のイメージはその詩句の集積。その言葉ゆえに、人々は西湖に憧れる。同時に、その言葉ゆえに、杭州や杭州人に対しもっともらしい虚像を抱く。上に述べたやっかみのように。どのみち、人々はそれぞれの先入観なしにこの地を訪れることはない。それが杭州である。
杭州には何度も来た。十回ではきかぬ。
西湖は確かに美しい。近い緑は湖岸の柳。遠い緑は山々の連なり。その遠近の緑の濃淡に包まれ湖面は豊かな水を湛え鏡のように静かである。一幅の絵のようだ。
しかし素直には浸りきれない。この絵には白居易や蘇東坡の言葉が貼り付いている。美しいと感じているのは眼前の風景に対してなのか、言葉に対してなのか……。私だけではあるまい。多くの中国人も同じだろう。杭州は一生に一度は訪れたい地だ。行ってみると確かに美しい。美しいが、どこか違和感が残る。詩人たちの言葉が風景を追い越してしまっているということなのだろう。それは杭州の栄光でもあり不運でもある。
それでもまた来たくなるのも事実だ。風景のゆえだろうか、言葉のゆえだろうか。
(中日新聞・東京新聞の2002年8月4日日曜版に掲載)