目次
西寧
湟中
青海湖
楽都
同仁
同仁
玉樹

 
===青海省===
旅チャイナ・トップ 青海チベット鉄道・入域許可書

《西寧》(せいねい)
 西寧は青海省の省都。
 青海省の省名は省内にある青海湖からとられている。古くは西戎、漢代は羌の領域であり、また唐代宋代は吐蕃の版図であった。青海省は、青蔵高原の東北部に位置し、省全体が海抜三千〜五千メートルの高地にある。広大な草原がひろがり中国の主要な牧畜地区のひとつである。青海省の住民は漢族のほか、チベット族、回族、土族、ラサール族、モンゴル族、カザフ族など。
 西寧は、青海省の東北部。黄河の支流である湟水流域にあり、標高は2275メートル。古来、中国内地とチベットを結ぶ要衝の地であり、現在も、青海省とチベットを結ぶ青蔵公路の起点である。西寧を通る国道は109号。北京まで二千キロ、ラサまでも二千キロ。そういう位置に西寧はある。

<東関清真寺>(とうかんせいしんじ)
 西寧市東関の東大街路の南側に位置する。創建は明の洪武年間(1368-98)。青海地区の最大のイスラム寺院である。平時でも三千人の信者が参拝に訪れる。二十世紀になり三度にわたる大規模な拡張工事が行われ、現在の規模に至った。
 中心をなすのは大殿。単檐入母屋造り。正面に八本の赤い柱が立つ。広さは1100平方メートルあり五千人の礼拝者を収容できる。

<北禅寺>(ほくぜんじ)
 西寧市の市街の北方、湟水北岸の岸壁にへばりつくように建てられた石窟寺院。
 いくつもの高楼と石窟を棚状の回廊で結んである。石窟の古いものは唐代のものかと考えられているが、現在は道教の寺院になっている。
 南を望むと、西寧市街が一望できる。

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《湟中》(こうちゅう)
 青海省の東北部。湟水流域。タール寺で知られる。

<タール寺>
 西寧から西南へ25キロ。ゲルク派の創始者であるツォンカパ(1357〜1419)の生地であることを記念して1560年に建てられた。チベット名ではクンブル寺。クンブルとは十万仏の意で、ツォンカパの生地に生える菩提樹の葉の一葉一葉に仏が宿っているという意味で、こう名付けられたという。
 中国名の塔爾寺は、ツォンカパを記念して建てられた本殿である大金瓦寺の大銀塔にちなんで付けられたという。大銀塔にはツォンカパの遺物が納められている
 ツォンカパは青海省・アムド地方のツォンカに生まれたためこうよばれる。七歳で出家。サキャ派の僧の教えを受け顕教と密教をともに修める。十一世紀のインドの学僧アティシャが唱えた、覚りに至る道筋を帰依、発菩提心、菩薩戒、般若行、密教の順にとらえすべての修行法やすべての哲学を一つの修行階梯のうちに統合する思想を元に、様々に分裂をしていた当時の宗派の教えを統合する哲学大系を打ち立てた。
 アティシャを祖とするカダム派の厳格な戒律主義をよりどころとしてことで、、堕落していた従来のチベット仏教と激しく対立し、彼らの紅帽と区別するために黄色い帽子をかぶった。そのため彼の教えを継ぐ派を黄帽派という。
 タール寺は、チベット仏教ゲルク派(黄帽派)の六大寺院のひとつに数えられる。他の五つは、チベットのガンデン寺、セラ寺、デブン寺、タシルンボ寺と甘粛省のラブロン寺である。
 年に四度の大法会が行われる。旧暦の一月四月六月九月。それ以外に小法会が二月と十月。法会とはラマ憎が法を説き、仏を供養するなどのために行われる行事であるが、タール寺ではそれに加え、仮面踊り、タンカ晒し、バター細工の展示などが行われ、多くの信徒を集める。

──大金瓦寺(だいこんがじ)
 1560年の建立。タール寺で最も古い建物。殿内に高さ11メートルの銀の仏塔がある。大銀塔という。ツォンガパが生まれたとき、母親が臍の緒を埋めたところ、菩提陶が1本生えてきて、やがて十万枚の葉をつけた。見ると、どの葉にも仏像が一体ずつ描かれており、母親は敬愛の念からそこに小さな塔を建てた。その小さな塔を基礎にして後世建てられたのが大銀塔であり、それを中心に形成された寺院がタール寺である、という。  大金瓦寺の面積は450平方メートル。青海のみならず、甘粛、四川、雲南、内モンゴルなどからの参拝者の列が絶えることなく大殿の前で五体投地を繰り返している。大殿の前には松の木のすのこがが敷いてあるが、すり減るため二年に一度は取り替えなければならないほどである。

──大経堂(だいきょうどう)
 1606年の建立。面積は2000平方メートルほど。朝の勤行が行われるのはここ。かつては四千人の僧がいたが今は七百名ほど。
 周囲には棚がめぐらされ何百という経典が積まれ、仏龕には精巧に鋳られた銅製の仏像が千体以上安置され、荘厳な雰囲気を醸し出している。
 明代の建物は火災に遭っており、現在の建物は1917年に再建されたもの。
 前に広場があり、大経堂広場という。現在いる七百人の僧のうち百名は学僧であるが、チベット仏教を学ぶ過程においては、「問答」というのが重要視される。一人が一人に問いかける。問いかけられたものは、それに答える。「発菩提心とは」とか。学僧がクラスを登っていくための試験も先生との「問答」の形で行われる。
学僧が「問答」を行っているのが、この大経堂広場である。

──小金瓦寺(しょうこんがじ)
 建立は1631年。タール寺の護法神殿。タール寺を護る護法神が祀られている。パンチェン・ラマ9世がチベットから青海にやってきたときに乗ってきたといわれる白馬の剥製も置かれている。

──小花寺(しょうけじ)
 1717年の建立。タール寺の中では比較的新しい建造。長寿殿ともいう。殿内は精美な彫刻と絵画で装飾され、釈迦牟尼、十八羅漢、四大金剛などの塑像が安置されている。
 中庭にの菩提樹の木が植えられており、夏になると淡黄色の小花をいっぱいに着け、周囲は芳香で満ちあふれる。小花寺という名の由来でもある。

──大厨房(だいちゅうぼう)
 かつて四千名の僧が毎朝勤行をしていた。勤行の後に必ず、バター茶を供する。その四千名のバター茶を煮るための厨房である。
 なかには黄銅製の大鍋が五つある。口径は1.65〜2.6メートル。深さはO.9-1.3メートルである。この大鍋を見るだけでも往時、この寺が持っていたエネルギーを感じることができる。

──タール寺三絶(たーるじさんぜつ)
 タール寺が誇る三つの優れたものを「タール寺三絶」という。バター細工、タンカ、堆繍と呼ばれる刺繍の一種の三つである。
 バター細工というのは、様々な色のバターで仏像、人物、草花、動物を造る。題材を宗教説に採ったり、人々の日常生活に採ったりする。
 色は、ヤクや羊の乳を煮詰め、先ず、白いバターを造る。それに、鉱物質の顔料を加えて、赤、青、黄などのバターを造る。色の鮮やかさ、細工の精緻さ。とてもバターには見えず、見るものをアッと驚かせる。
 タンカとは布製の幕に描いた仏画である。寺院や屋内の祭壇に掛けられ祈りの対象として使われる。綿の織物に鉱物質の顔料で描かれることが多い。鉱物質の顔料は色が褪せないという特徴があるためである。
 タール寺で有名なのは、大タンカ。幅五十メートルを超える大タンカが、旧暦四月の大法会の時に、山の斜面に掲げられる。
 堆繍というのは、立体的な刺繍。絹製の布に羊毛や綿を詰めて形を作り、布製の幕に縫いつけ、仏像や草花、動物などを描いたもの。

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《青海湖》(せいかいこ)
 西寧の西150キロ。中国最大の塩湖である。周囲は360キロメートル、面積は4560方キロメートル。琵琶湖の六倍である。青海省の省名の由来になっている。モンゴル語ではココノール、青い湖の意である。
 湖の真ん中に海心山という島があり、島内にはラマ教の寺院がある。また、湖の北西部には鳥島と名付けられた島がある。毎年10数万羽の鳥が青海湖に飛来するが、そのうちの三分の一は鳥島に集中する。春になると斑頭雁(かりの一種)、鳶色頭カモメ(カモメの一湟種)、アカツクシガモ、鵜など数十種の鳥が島を覆い尽くすようにやってくる。
 青海湖に生息する魚は一種類のみ。湟魚という。鯉の種類で鱗がなく、学名を裸鯉魚という。
 青海湖の標高は、3266メートル。かなり高い。西寧からくると手前に日月峠がある。ここが中国内陸とチベットの分水嶺で、ここを越えると裸麦の農耕の世界から草原の遊牧の世界へと景色は一変する。 この峠に唐の時代にチベット王ソンツェンカンポに嫁いだ文成公主を偲ぶ日月亭がある。

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《楽都》(らくと)
 西寧市の南東65キロ。湟水の下流域にあたる。

<瞿雲寺>(くどんじ)
 楽都県の県城の南20キロの渓谷に建つチベット寺院。山を背にし、川に面し、はるかに雪山を望む。チベットのカルマ・カギュ派の僧・サンゲタシによって建立され、明の洪武26年(1393)に太祖より「瞿雲」という額を下賜される。
 そういったことから中国の影響を強く受け、典型的な宮殿式の建築群で、中軸線上に山門、金剛殿、瞿曇殿、宝光殿、隆国殿などが並ぶ。
 釈迦牟尼の一生を描いた壁画が残されている。柱間にして51間の大きな彩色壁画で絵巻物の方式で描かれている。

<西来寺>(さいらいじ)
 楽都県の県城の東の関にある。1606年、明の万暦34年の創建。山門、過庁、大殿と東西の廂房からなる。大殿は間口が柱間にして5間、奥行は柱間にして3間。単檜入母屋造りで基壇の上に建てられている。
 かつては大殿の中央に釈迦牟尼、左右に文殊と普賢という三世仏の泥塑像をはじめ、阿難、迦葉、丘などの像が安置されていたが今はない。残っているのは、八大供養菩薩のみである。

<柳湾墓地>(りゅうわんぽち)
 楽都県の東方17キロの柳湾にある原始時代の共同墓地の遺跡。3500〜4500年前のもとの見られる。1974年から79年にかけて発掘が行われ、4万点にちかく文物を掘り起こしている。そのうち陶器が1万 7000点余り、石器と骨器が1300点余り、装身具が1万8000点余りである。

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《同仁県》(どうじんけん)
 雲南省の最東部。甘粛省に隣接する。黄河の支流である隆務河沿いに開けた土地。県政府は隆務鎮にある。この地の人はみな、仏画を描くことが出来ると言われるほどに、村全体で熱心に仏画を描いている。絵は壁画。タンカと言われるもの。白い布に、鉱物性の顔料で描く。鉱物性の顔料は何百年も色が褪せない。

<同仁寺>(どうじんじ)
 同仁県隆務鎮の東北6キロにある。五屯寺ともいう。1.5キロ離れて上同仁寺と下同仁寺がある。
 現存するのは、上寺の大経堂、迦牟尼殿。下寺の大経堂と弥勒仏殿で、ともにチベット様式と漢様式が結合した建築群である。

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《玉樹》(ぎょくじゅ)
 玉樹州は、青海省の面積の四分の一を占める。もともとはカム地方に入っていた。カムとは、チベット自治区の東部や四川省の昌都 や徳格を指し、 そこの男をカムパと呼ぶ。カムパは、ひときは宗教心が強いこと、背が高く彫りが深い美丈夫が多いこと、気が荒いことなどで知られる。
 玉樹は古くからの交易都市。四川省の石渠からは茶が、青海省からは塩が、そのように物資がここに集まり取引をされていた。長江上流の通天河の支流にある。
 西寧からは800キロ。定期バスがあるが、二泊三日かかる。

<文成公主廟>(ぶんせいこうしゅびょう)
 七世紀、唐からチベット王ソンツェンカンポに嫁された文成公主がラサへ向かう途中、この地で、一ヶ月ほど滞在をした。それを記念して建てられた廟。
 裏手の崖に大きな文成公主の像が彫られている。もともと、チベットには岩に像を彫るという習慣がなく、これが初めての岩に掘られた像だという。
 文革などの破壊から立ち直りつつあり、現在、二十名を越える僧が修行をしている。

<ジェグ・コンパ>(結石寺)
 街の北の高台にある。サキャ派の大寺院。文革の時に徹底的な破壊を受け、寺も僧坊も何も残っていない状態であった。2000年頃から復興工事が始まり、建物がひとつひとつ再建されつつある。

<ジャナ・コンパ>
 玉樹県新塞村にある。新塞村は三百家族、人口1500人だが、その1500人全員がマニ石の彫刻が出来るという。マニ石というのは、石にチベット仏教の経文を彫ったもの、ラマ寺に巡礼の際に奉納してゆく。  この寺には、奉納されたマニ石が山のようになっていて、その数、200万という。

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