目次
長沙
望城県
寧郷県
韶山
岳陽
汨羅
平江県
寧遠県
衡山県
武陵源

===湖南省===
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《長沙》(ちょうさ)

 長沙は湖南省の省都。湖南省は中国の中南部。洞庭湖の南にあるため湖南と名付けられた。湖南の名が付けられたのは唐の時代からである。略称は湘。省の東部を南北に貫く湘江にちなむ。湘江は、洞庭湖に注ぐ。
 また近世においては数多くの革命家を排出したことで知られる。毛沢東であり劉少奇であり彭徳懐である。遠くは曽国藩、近くは胡耀邦も湖南の産である。
 春秋・戦国時代、黄河流域の中原の諸国とは違う文化・気質をもって現在の湖北省に栄えた楚の国から大量の楚人の流入があり、南楚と呼ばれた。

<湖南省博物館>(こなんしょうはくぶつかん)
 建物面積10,000平方メートル、所蔵品12万点を誇る。大きく、「湖南歴史文物陳列」と「馬王堆漢墓陳列」の二つの部分に分かれる。前者は、殷・周時代の青銅器と楚の漆木器に特徴がある。
 この博物館で見逃せないのが、馬王堆漢墓から発掘された前漢時代の女性のミイラと、副葬品。
 女性は、前漢初期の長沙国の丞相の妻とされるが、世界を驚かせたのは、2100年以上前のものにもかかわらず、完全な形で保存された遺体であった。少しも腐乱したところがなく、顔も目・耳・鼻・口・頭髪がほぼそのままに残されていた。
 皮膚には弾力があり、指で押すと、くぼんだのちまた元に戻る状態であった。内臓器官も残って、解剖の結果、死因についての推測も下されている。
「カルテ」が発表されているがなかなか興味深い。
 氏名・性別・年齢:辛追・女性・50歳
 血液型:A型  病歴:動脈硬化、胆石症、肺結核、腰椎間板ヘルニア、蟯虫、鞭虫、吸血虫
 死因:胆石症の痛みからくる心臓発作
 胃、食道、腸から138粒のマクワ瓜の種が出てきた。そのことより、6月から8月にかけて、マクワ瓜を食べた直後に死亡したと見られる。
 また、体内から水銀が抽出される。これは、道教の長寿の薬とされた仙丹(水銀を原料に使う)を飲んでいたためであろうとされる。
 この水銀と、遺体が以上に完全な形で残ったこととが関係があるのかどうか、研究中とのこと。

 もうひとつ、展示品のなかで注目をされるのが、二枚の絹製の「素沙単衣」と呼ばれる服である。この服は、48グラムと49グラムの重さしかない。野生の蚕の繭から取った絹で作ったためとされる。現在では、野生の蚕がいないため作ることはできない。

<馬王堆漢墓>(まおうたいかんぽ)
 湖南省博物館に展示されている「馬王堆漢墓」のミイラや副葬品が発掘された場所。
、  長沙市の東へ8キロの郊外。高さ1Oメートル、直径30メートルの馬鞍形の土丘で、もともとは五代の楚王の馬殷(852-930)の墓と考 えられていて馬王堆と呼ばれていたが、1971年、病院の工事により偶然に入り口が発見され、大規模な発掘が始まった。
 三つの墓が発見され、前漢初期の長沙国の宰相利蒼の墓であることが判明。一号墓は妻の辛追、二号墓は利蒼、三号墓は息子がそれぞれ埋葬されたものである。
 現在、三号墓をアーチ形の覆いで保護し、一般の見学に公開している。

<開福寺>(かいふくじ)
 五代十国の時代の楚王の馬殷(在位907-930)が創建。
 唐の滅亡(907)から宋の建国(960)、または宋による統一(979)までの間にうちたてられた諸王朝を一括して五代十国とよぶが、こので言う楚は、その十国のうちのひとつ。
 馬殷は避暑のために建てたものであったが、その子の馬希範は深く仏教に帰依しており、建物を寺院に改造をして千人の僧を擁する臨済禅の寺とした。
 宋、明、清と興廃をくりかえしながら、現在では、三聖殿、大雄宝殿、毘盧殿、山門を擁する大きな規模を誇っている。

<岳麓山>(がくろくさん)
 長沙市内、湘江の西岸にある。衡山(南岳)の麓にあるということで岳麓山という。南朝の劉宋代(420-479)の書した『南岳記』という本に、「南岳は周囲八百里、回雁を首と為し,岳麓を足と為す」という言葉が見られという。
 標高は296メートル。樹木の生い茂る山々の重なりと渓谷美をもってしられ、古来多くの文人墨客が訪れている。

──<岳麓書院>(がくろくしょいん)
 岳麓山の東麓にある。南宋の時代には朱熹が講義をし、千人を超える学問の徒が受講したという。
 開設は北宋時代の976年、潭州太守の朱洞によって建てられた。最盛期は南宋であるが、その後盛衰を経て、清代1903年に高等学堂に改められ、のちに高等師範、湖南高等工業専門学校、湖南大学とと、学問の場としての命脈を今日なお保っている。
 講堂、文昌閣、六君子堂など、現存する多くの建物は清代のものである。
 朱熹の筆による「忠孝廉節」四文字の石刻、乾隆帝の扁額「道南正脈」などが残されている。

──<愛晩亭>(あいばんてい)
 岳麓山の岳麓書院の後ろ側、清風峡の小さな山の中にある。晩秋の楓の紅葉で知られる。それ故、紅葉亭とも愛楓亭とも言う。
 それぞれ、唐代の詩人・杜牧(803〜852)の「山行」(やまあるき)と言う詩による。

 遠く寒山にのぼれば石径は斜なり
 白雲の生ずるところ人家有り
 車を停めてそぞろに愛す楓林の晩
 霜葉は二月の花よりも紅なり

──<麓山寺>(ろくさんじ)
岳麓山の中腹、愛晩亭の少し登ったところにある。晋代、268年の創建。湖南省最古の仏教寺院である。破壊と再建を繰り返してきたが、現在残るのは後殿と大門だけである。

──<麓山寺碑>(ろくさんじひ)
 唐代の著名な書道家・李ヨウの筆による石碑である。筆力の雄健さで広く知られる。
 石碑の大きさは高さ4メートル、幅1.35メートル。文字数は1400余り。内容は、麓山寺建立の経緯などである。
 裏面には宋代・元代の書道家の題字が刻されている。最も有名なのは北宋の米フツのもの。

<橘子洲>(きつししゅう)
 湘江のなかの中州。長さは5キロほどある。橘子とはミカンのこと。古書に「時に大水有り、諸洲皆没し、ただ橘洲独り浮かび、上に美橘多し、故に名となす」、とある。
 毛沢東は、青年時代、よくここに来ては水泳や読書に時を過ごしたという。

<天心閣>(てんしんかく)
 旧城にある。高さ30メートルの城郭の上に建つ。湘江をあいだに挟みはるか岳麓山と相対す。登ると長沙の街と湘江の流れを一望できる。
 創建の年代は不明。太平天国の乱の時には太平天国軍の西王・蕭朝貴の率いる部隊と清朝の大軍の激戦が舞台になった。また、辛亥革命の時代には同盟軍が長沙分会を設けた場所でもある。1930年。紅軍が長沙に進行したときに彭徳懐は、ここに司令部を置いた。近代史の様々な戦いの歴史が刻まれている。

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《望城県》(ぼうじょうけん)
<銅官窯遺趾>(どうかんよういし)
 中国古代の名窯と呼ばれるものには、越窯、官窯、定窯、景徳鎮窯、汝窯などがあるが、長沙窯もそのひとつである。1958年、長沙市望城県で長沙窯の窯跡が発見された。それ以降、銅官窯とも呼ばれるようになった。
 長沙窯は唐代中期に始まり、晩唐に最盛期を迎えたとされる。主に青磁などの日常生活用品として製作された。
 中国の磁器で釉下彩が施されるのは唐代以降のことといわれるが、銅官窯の特徴は、その釉下彩、印花、貼花とされる。釉下彩とは、透明な釉薬の下に絵付けを描き、本焼で発色させる技法を言う。また、印花とは、陶磁器の表面に型を押しつけて模様を刻む技法であり、貼花とは、型を貼り付けて模様を作る技法を言う。
 特に、釉下彩、素地に顔料で絵付けをしてから釉を掛けるという下絵付きの技法の開発は、後世の陶磁器発展の道筋に絶大な影響を与えた画期的なものであった。
 中国内では、揚州や寧波からの出土が多い。これは、当時、朝鮮、日本、東南アジア、遠くはエジプトまで航路による販路を持っていたとされることと無縁ではない。

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《寧郷県》(ねいごう)
<劉少奇故居>(りゅうしょうきこきょ)
 劉少奇(1898〜1969)の生家。長沙の第一師範学校をへてモスクワの東方労働者大学校に留学。帰国後、共産党に入党、労働運動の指導者として活躍する。革命の成功後は、中央人民政府副主席、党副主席などを歴任。1959年には「大躍進」失敗の責任をとって退任した毛沢東のあとをうけて国家主席となった。
 しかし、66年の文化大革命開始と同時に毛派の巻き返しをうけて失脚、失意のうちに69年世を去ることになる。
 その後、名誉回復がなされ、生家は1980年に復元され、書斎や寝室がに写真の資料など数百が展示されている。
 毛沢東の生家のある韶山からは直線距離にすると30-40キロのところある。彭徳懐の生家とあわせて三角形の位置関係になる。ともに革命を戦い抜きながら、大躍進の時期に毛に失脚させられた彭徳懐、文革の時期に失脚させられた劉少奇。運命は数奇である。

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《韶山》(しょうざん)
<毛沢東故居>(もうたくとうこきょ)
湘潭県の県城の西方40キロ、詔山の山麓に毛沢東(1893〜1976)の故居がある。毛沢東はここで生まれた。
 毛沢東の曾祖父が小さな藁葺きの家を買い取り、その後三代の努力で部屋数十三の家屋にした。親夫婦の部屋、毛沢東をはじめとする三人の兄弟の部屋などが復元されている。
 故居から五百メートルほどの、龍盤山と虎踞山に抱かれた中腹に韶山毛沢東同志記念紀念館がある。「滴水洞」と名付けられた毛沢東の別荘を増築したものである。
 滴水洞の建設は1962〜64年。第三次世界大戦に備えて山腹をくりぬいて核シェルターが付設されている。
 毛沢東が、革命の成功後、韶山に帰ってきたのは二度である。それぞれ、中国現代史を決定づけるような重要な決定を毛沢東が下す直前のことである。
 一回目は、1959年、廬山会議の直前。毛沢東は、この会議で、人民公社の成否を巡り、同郷の同志・彭徳懐国防部長を解任する。
 二回目は、1966年、文化大革命の構想を実行に移し始めた時期である。「私は今、西方のひとつの山洞にいます」という手紙を妻・江青に書いている。その「山洞」が滴水洞であった。ここから北京に戻り、同郷の同志・劉少奇を「反党分子、修正主義者」として追い落としていくことになる。
 近くに韶山駅ができている。もともとはなかったが、文革の時期、全国から多くの紅衛兵が毛沢東の生家を訪れた。長沙からバスで一日がかりであった。やがて、紅衛兵は、線路を敷き、駅舎も作った。「汽車が韶山に向かって走っている」という歌が流行った。1968年頃のことである。
 一つの時代を映す鏡でもある。

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《岳陽》(がくよう)
 岳陽は洞庭湖東岸の河港都市。長江と洞庭湖が接する地点に位置する。古来、水運、陸運の要地として知られる。 洞庭湖はかつて中国一の広さをもつ湖であったが、長江から運ばれる土砂などにより面積は狭まり江西省のハ陽湖にその地位を譲っている。

<岳陽楼>(がくようろう)
 古来、「洞庭は天下の水、岳陽は天下の楼」と言われてきた。
 日本人には杜甫の詩で知られる。

 昔聞く洞庭の水
 今上る岳陽楼
 呉楚東南に裂け
 乾坤日夜浮かぶ
 親朋一字だになく
 老病孤舟あるのみ
 戎馬関山の北
 軒に憑れば涕泗流る

 洞庭湖は琵琶湖の七倍も八倍もある大きな湖である。「春秋戦国時代の呉や楚の国であった大地が東南に裂けて湖となったという。天地をその上に浮かべているかのような大きなスケールだ。この大きな自然になかで、私と言えば、親しい者からの便りもなく、病み、そして老い、わずか一艘の小舟があるだけだ。北方には戦乱が続いて故郷に帰る術もなく、欄干にもたれると涙が落ちる」、と。
 岳陽楼は、洞庭湖の湖畔に建つ。遙かに君山と相対す。岳陽市の西門の城楼であった。創建は、三国時代、呉の魯粛(172-217)が水軍を訓練するために築いた閲兵台と伝える。岳陽楼と呼ばれるようになったのは唐の時代から。
 現在の建物は清代、1880年の再建。主楼は間口17.24メートル、奥行14.54メートル。高さは、19.72メートル。三層の屋根をもつ。
 楼内に範仲淹の「岳陽楼記」が掲げられている。範仲淹は宋代の政治家にして文学者。1045年、当時の巴陵郡太守・藤子京が岳陽楼を大改修した際の依頼により撰したもの。古今の名文とされる。
 特に日本で知られるのは、そのなかの「天下の憂いに先だちて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」という一節。岡山や東京・小石川の「後楽園」の名はここから取ったという。

<文廟>(ぶんびょう)
 文廟は孔子廟のこと。記録によれば、宋代、1046年の創建。間口柱間5間、奥行柱間3間の重槍入母屋造り。明、清に改修が加えられており、それぞれの時代の手法を図案や彩色にみることができる。

<魯粛墓>(ろしゅくぼ)
 岳陽楼から300メートル西に行ったところにある。周囲に石造りの欄干をめぐらした立派なお墓で、墓前には「呉大夫魯公粛墓」と陰刻した墓碑が建つ。清の光緒年間のもの。
 魯粛(172-217)は字を子敬といい、呉の孫権に仕える。周瑜が赤壁の戦いで曹操の大軍を破るの時にも、大きた役を演じた。

<慈氏塔>(じしとう)
 街の西南部、洞庭湖に面して建つ。唐の開元年間の建立。現存する塔は宋代の再建と思われる。煉瓦で造られた八角七層の塔。高さは39メートル。
 言い伝えによると、昔洞庭湖には魔物が住んでいて風波を荒げては人々の命を奪っていた。そこにやってきた高僧が、魔物を鎮めるために塔を建てねばと言い、寄付を募って工事を始めた。完成前に資金が尽きたが、魔物のために家族全員が犠牲になっていた寡婦の慈氏が全財産をなげうって塔を完成させた。そのことから、塔には彼女の名が付いた、という。

<君山>(くんざん)
 洞庭湖に浮かぶ最大の島。洞庭山ともいう。岳陽楼からは15キロの沖合になる。面積は一平方キロメートル。竹と茶で名高い。
 斑竹、羅漢竹、実竹、方竹、紫竹、毛竹などの珍しい竹が群生する。また、茶としては「君山銀針」が有名である。細長い茶葉とほんのりとした甘さが特徴である。

──<二妃墓>(にひぽ)
 堯は中国の古伝説上の聖王。暦を作り、治水に舜を起用しのち位を彼に譲った、とされる。その堯に二人の娘がいた。名を蛾皇と女英といった。堯は、舜の徳行の優れたのを高く評価し自分の息子にではなく堯に帝位を譲り、あわせて蛾皇と女英嫁がせた。
 舜は河川の巡視、治水工事のために留守がちであった。 蛾皇と女英は舜が心配で探し尋ね、君山までくると、舜が蒼梧山で死んだことを聞き、悲嘆のあまり二人この地に卒した、という。その墓が 二妃墓である、と。
 辺りには斑竹が茂る。斑竹の葉の斑は、二人の妃が悲嘆の余りに流した涙の跡である、という。

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《汨羅》(べきら)
 汨羅は長沙の北70キロ。岳陽の南50キロ。汨羅江沿いの町。屈原がこの地で身を投げたことで知られる。

<屈原墓>(くつげんぽ)
 戦国時代の楚の国の政治家である。愛国詩人としても知られる。「楚辞」の代表的作家。特に「離騒」は名高い。生没は、前343頃- 前277頃とされる。
 西方に興った秦が徐々に力を増し、戦国諸国を術数と武力で滅ぼし中国全土を統一して行く。その過程にあって、楚の国の王族の名門に生まれ、副宰相の地位に昇る。秦と対抗して楚の国運回復に尽力したが、讒言によりに放逐され、失意のままに汨羅の淵に投身。その憂憤・憂国の思いを吐露した作品を残す。「離騒」をはじめ「天問」「九歌」などの作品が「楚辞」に収録されている。
 「漁父」にいう。追放され詩を吟じつつ沼沢のほとりを歩いている屈原の前にひとりの漁師が現れる。なぜ、このような哀れな境遇になったのか、との問いに「世を挙げて皆濁れるに、我独りすめり」と。漁師は言う。「聖人とは、世が清ければそれに応じて清くし、世が濁ればそれに応じて自分を濁すもの」と。屈原は言う。「新たに沐する者はかならず冠をはじき、新たに浴する者は必ず衣を振るう」、と。漁師は聞くと、笑いながら船端をたたいて去って行く。去りながら歌う。「滄浪の水が清んでいるなら冠のひもを洗えばいい。滄浪の水が濁っているなら足を洗えばいい」。
 非常にスケールの大きな問答である。
「詩経」が黄河流域に展開した北方文化の象徴である歌謡集であるのに対し、「楚辞」は長江流域の南方文化を象徴する朗誦作品集といわれる。屈原の辞賦とその門下が屈原を想い詠んだ辞賦を編んだものである。
 近くに、屈原を祀った祠である「屈子祠」もある。

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《平江県》(へいこう)
<杜甫墓>(とほぼ)
 平江県の近郊にある。
 成都を後にして長江を下るのが765年、五十四歳の時である。江南を放浪し、「岳陽楼に登る」を詠むのが768年。このころ病を得て苦しむ。そして、770年。湘江の舟のなかで五十九年の生涯を閉じた。
 李柏と並ぶ中国の詩文学の最高峰にしては余りに寂しい最後ではあった。
 どこに葬られたかに関しては定説はない。他にも「杜甫の墓」は幾つもある。

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《寧遠県》(ねいえん)
<九疑山>(きゅうぎざん)
 寧遠県の南部に聳える。名のとおり九つの峰からなる。蒼梧山ともいう。最も高いのは舜源峰で638メートル。
 この山が名高いのは、中国の古伝説上の聖王であり、五帝の一人である舜の終焉の地とされているからである。
『史記』五帝紀に言う。舜が「南に巡狩し、蒼梧の野に崩じ、江南の九疑に葬らる」とある。
 舜源峰の下にはそれに因み舜廟がある。こちらは明代の創建。

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《衡山県》(こうざん)
<衡山>(こうざん)
 中国の山岳信仰の中心にある五つの山を五岳という。衡山はそのひとつ。南岳ともいう。北岳は山西省の恒山、西岳は陝西省の崋山、東岳は山東省の泰山、中岳は河南省の嵩山。
 もともとは道教の聖地であったが、仏教伝来以降、多くの仏教寺院もこの地を選び建てられている。
 大小七十二の峰からなるという。有名なのは、祝融峰、天柱峰、芙蓉峰、紫盖峰など。最高峰は祝融峰の1290メートル。
 他の四岳と比べ気候条件に恵まれ、木や竹が繁茂し一年中緑に覆われている。花も多く景観の美しさから、古来「南岳、独り秀なり」などと言われてきた。
「衡山四絶」として称えられてきたものは、「祝融峰の高さ」「蔵経殿の秀」「方広寺の深さ」「水簾洞の奇」である。

──南岳大廟((なんがくたいびょう)
 衡山の麓の町は南岳鎮。その南岳鎮にある。五岳にはそれぞれ廟がある。廟には歴代の皇帝が詣で、天を崇め地を祀ってきた。中国の山岳信仰は、秩序の論理であり、王朝支配の正当性の論理でもあった。廟の建造はそのことの象徴でもあったわけである。南岳大廟は規模こそ一位の地位は東岳泰山の岱廟に譲るが全体の完成度は最も優れていると言われる。
 総面積は9万8千平方メートル。南向きにレイ星門、盤竜亭、正川門、御碑亭、嘉応門、御書楼、正殿、寝宮、後門と建築群が並ぶ。
 現在の建物は清代の再建。

──祝聖寺((しゅくしょうじ)
 南岳大廟から南へ250メートル。唐代の創建。関聖殿、大仏殿、薬師殿、説法堂、方丈室、観岸堂、羅漢堂などの建物が並ぶ。現在の建物は清代の再建。高 い。

──祝融殿((しゅくゆうでん)
 祝融峰の頂上に建つ。祝融峰は南岳・衡山七十二峰の最高峰で、海抜は1290メートル。
 祝融を葬ったと伝える。祝融は、中国の古伝説上の帝王。火の神、夏の神、南方の神とされる。中国の伝説では、人々に火をもたらしたのは燧人氏で、その火種を管理するのが祝融とされる。我が国でも、火災のことを「祝融の災」などという。
 祝融殿からすぐのところに「望日台」がある。ここから眺める日の出は、その荘厳さを以て広く知られる。

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《武陵源》(ぶりょうげん)
 雲南省、貴州省、湖南省を横断して広がる高原が貴雲高原。武陵源はその東の端に当たる。鬱蒼として自然林や林立する石柱群の景観で知られる。1992年にユネスコの世界遺産に登録されている。
 面積は264平方キロメートル。大きくは三つの風景区に分けられる。張家界国家森林公園、索渓峪自然保護区、天子山自然保護区である。

<張家界>(ちょうかかい)
 張家界国家森林公園は、武陵源の西南部にあたる。長沙からは400キロの距離にある。三つの風景区の中で最も早くから開発が進められ、訪れる人も最も多い。
 古くから「林十万、峰三千、水八百」と称される。森林が広がり、そこに砂岩の峰が林立し、至る所に滝があり池がある。
 張家界のなかに、いくつかの散策コースが造られている。
 短いコースとしては、黄石寨風景区のコース。一周三キロ。石段のコースとなる。奇岩怪岩が林立する風景の中を歩く。特に景色の良い箇所には「金亀岩」「南天一柱」などと名前が付けられ、展望台が設けられている。
 金鞭渓風景区コースは全長6キロ。渓谷に沿ってよく整備された石畳のコース。奥深く森林に入って行く喜びを味わえる。アップダウンも少なく、張家界独特の奇岩怪岩の林立も楽しめ、また森林浴も楽しめる。

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