目次
鄭州
開封
安陽(殷墟)
嵩山
洛陽

===河南省===
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《鄭州》(ていしゅう)

 鄭州は河南省の省都。河南省は、黄河の南の意である。黄河に育まれた中国古代文明発祥の地である。実在が確認されている最古の王朝である殷が都を置いたのは、前期には鄭州、後期には安陽、ともに河南省である。その後の周の時代も、本拠が置かれたのは河南省であった。
 黄土高原と黄河が、この地の人々に広大な耕作地を提供し、人々はそれによって文明を造りだした。その中心にあるのが、河南である。そのまた中心にあるのが鄭州である。
 南北には京広線が。東西には隴海線が。北に行けば北京、南は広州。西に行けばウルムチ、東は上海。その線が十字に交わる。そこが鄭州である。

<河南省博物館>(かなんしょうはくぶつかん)
 1997年に新しい建物が完成をした。1927年、開封市に開館したのが始まり。歴史の古さを誇る河南省の博物館だけあって、殷の時代の青銅器、玉器、陶器、甲骨から周時代、春秋時代にかけての貴重な出土品がずらりと並んでいる。
 なかでも、偃師市二里頭から出土した爵(中国古代の酒を暖めるための器で、先の尖った三本の足をもつ)は、いままで発掘された青銅器の中で最もものと言われる。

<黄河展覧館>(こうがてんらんかん)
 黄河全域にわたっての河流図や河道の変遷、暴れ河と呼ばれる洪水の歴史、それに対抗する治水工事の状況など、多くの写真と模型図で説明されている。
 黄河の全長は5464キロ。一立方メートル当たり37キログラムの土を含むという。陝西、山西、河南の黄土高原を抜けならが大量の土砂を下流に運ぶ。黄河が黄海へ運ぶ土砂の量は年間で十六億トンという。この土で、縦横高さ一メートルずつの壁を造ると、その壁は、なんと地球を27周するという。
 この、黄河が運ぶ土ゆえに黄河文明を支えた農耕を可能にし、同時に、黄河が運ぶ土ゆえに河床が上がり天井河となって氾濫を繰り返してきた。
 そういう黄河の相貌をかいま見ることができる博物館である。

<商代遺跡>(しょうだいいせき)
 市内にある殷(商)の時代の都市の遺跡。安陽の殷墟よりも古い史跡で、殷(商)の初期の時代のものとされる。城壁は、長方形で周囲は七キロ。
 城壁は、断続的に残るが、保存のよいところでは、高さ5メートル、幅30メートルほどの土の壁として残っている。もちろん、昔の城壁の址であることは分かっていたが、1950年代の調査で、初めて紀元前1500年前後、今から3500年も前の遺跡であることが分かった。
 城郭からは住居跡や青銅器の工場の跡、多くの青銅器、陶器、土器が発掘されている。出土品の多くは、河南省博物館に所蔵されている。

<花園口>(かえんこう)
 鄭州市から北へ18キロ。黄河の南岸にあった渡し場。この地名が人々に知られるようになったのは、1938年、蒋介石が、ここで堤を切ったことによる。
 日本軍の進軍の早さに驚いた蒋介石はそれを阻止するために、堤防を切った。
 黄河は、陝西省と山西省の間の晋陝渓谷を黄土を削りながら北から南へ駈け下り、中国五岳のひとつ崋山にぶつかって東へ流れる。ここで河幅は一気に広がり緩やかな流れになる。黄河は、呑み込んできた黄土を、ここで徐々に吐き出しながら流れる。それが洛陽であり鄭州である。したがって、この辺りは年々河床が上がる。洪水を防ぐために年々堤が高くなる。河は平地よりも高いところを流れる。所謂天井川である。
 ここで堤を切ると、どうなるか?
 黄河の水が村を襲い町をおおい、1200万人以上が被災し、死者の数は90万人と言われる。
 現在では、花園口は、黄河の氾濫との戦いの象徴的な場所として、大規模な植樹が進められている。

<漢覇二王城遺跡>(かんはにおうじょういせき)
 鄭州の北西30キロ。「漢覇二王」とは「漢王劉邦」と「西楚の覇王項羽」のこと。紀元前203年、項羽と劉邦の軍隊が鴻溝という小さな川を挟んで対峙した。対峙すること一年。決着がつかず、和議が成立する。鴻溝以西を劉邦の地、鴻溝以東を項羽の地とする、と。項羽は和約がなると囲みを解き兵を率いて東へ向かった。劉邦は? 劉邦は、策士として名高い張良と陳平の進言を容れ、約を破り駒を返して項羽を追う。
 唐代の散文家韓愈は、「鴻溝を過ぐ」という詩の中で言う。

 誰か君主に勧めて馬首を回さしむ
 真成に一擲乾坤を賭く

 こうして劉邦は項羽を垓下へ烏江へと追いつめてゆくことになる。
 黄河の南岸。東に覇王城。東西に1000メートル。西に漢王城。東西1200メートル。城壁が今でも残っている。覇王城側には展望台があり、登ると、漢王城を見渡すことができる。眼下には黄河の流れ。

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《開封》(かいふう)
 鄭州から東へ72キロ。街から10キロ北を黄河が流れる。
 戦国時代、七雄のひとつである魏の都とされた。紀元前四世紀のことである。当時の名は、大梁。もっとも栄えたのは北宋の時代。首都であり、東京と呼ばれた。その繁栄ぶりは、北宋の画家・張択端の『清明上河図』に描かれている。
 当時の宋代の街並みを再現したのが宋都御街。楼閣建築の建物が道の両側に並ぶ。
 その北宋の繁栄が終わるのは1127年。蒙古の草原に興った女真族の金が強大になり、都に攻め入って徽宗上皇、欽宗皇帝らを北方へ連れ去る。漢王朝の余命は杭州に拠った南宋へと引き継がれてゆくことになる。
 この頃から黄河は大規模な氾濫を繰り返し、河道もしばしば変える。黄河が開封の南を流れた時期さえある。金代、明代、清代。繰り返される洪水の度に開封は黄土に埋もれ、今の開封の地面は、北宋の時代より8メートルから10メートル高くなっているという。

<相国寺>(そうこくじ)
 もともとは戦国時代の魏の公子・信陵君(?ー前244)の邸宅であった。信陵君は、斉の孟嘗君、趙の平原君、楚の春申君とともに戦国の四公子と呼ばれ、「食客三千人」を擁し、彼らの機略や才で秦の侵攻から国を救った人物である。
 その住居跡に、555年、仏教寺院が建てられた。当時の名は建国寺といった。
 栄えたのはやはり北宋時代。皇帝の崇拝を得て拡張を重ねた。現在の建物は清代の再建である。
 八角瑠璃殿は、屋根を瑠璃の瓦で葺き、周囲に回廊をめぐらせた荘厳な建物で、殿内には、一本のイチョウの大木を精緻な丸彫りにして金箔を貼った高さ七メートルの千手観音菩薩像が安置されている。清代乾隆年間の作と言われる。
 また、大門東脇の鐘楼に半トンの大銅鐘がかかる。

<龍亭公園>(りゅうていこうえん)
 宋代の宮殿の庭園の跡地に、清代に万寿宮という大殿が建てられた。正面に72段の階段がありその中央には九龍を浮かし彫りにした御道ある。
 宋の街並みを模した宋都御街は、龍亭の午朝門から南へ延びる道である。

<鉄塔>(てっとう)
 レンガ製の仏塔であるが、外壁の褐色の瑠璃のレンガが鉄製に見えるために鉄塔と呼び慣わされている。正式な名は、開宝寺塔。
 開宝寺は相国寺と並ぶ開封を代表する寺であったが今は塔を残すのみである。
 最初に塔が建てられたのは十世紀の終わり。木造の塔で高さは120メートル。日本の仏塔で最も高いのは京都の東寺の塔で57メートルといわれる。その高さが分かろう。ところが、それが1044年、落雷により焼失してしまった。その五年あとに建てられたのが、この塔である。
 もともとは60メートルほどであったが、度重なる黄河の洪水で基盤は土でも埋もれ、現在の地表からの高さは55.8メートルである。
 塔頂まで階段があり登ることができる。

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《安陽》(あんよう)

<殷墟>(いんきょ)
 殷王朝の都市遺跡である。中国の歴史では、夏、殷、周と王朝が続いてくることになるが、一般に、名前が確認できている王朝は殷までとされる。
 建国は紀元前十七世紀とされる。
『史記』によると、湯王が夏王朝の桀王を倒して建てたといわれる。滅亡は、紀元前十一世紀頃。第三十代紂王が酒色にふけり、国は大いにみだれ、周の武王に滅ぼされたとする。
『史記』には、殷の首都を六度遷都したとあるが、いままでの発見で、殷と首都とされるのは鄭州と殷墟である。殷墟は、殷の最後の250年間の都であったとされる。
 殷墟の発見は1899年、当時北京ではマラリアに効く漢方薬として「龍骨」という何かの骨が使われていた。ある北京の薬屋で、王懿栄と劉鶚という二人の学者が「龍骨」の上に見知らぬ小文字が刻まれているのを発見したことから「甲骨文字」の発見、さらには殷墟の発見へと繋がった。
 1928〜37年に、中華民国政府により大規模な発掘をおこない、宮殿や王族の墓などを発見した。それまでは伝説か史実かハッキリしていなかった殷王朝の実在が証明された。

<天寧寺塔>(てんねいじとう)
 またの名を文峰塔という。特徴的な形をしている。八角形の五層なのだが、上に行くほど大きくなって行く。そして、第五層の上にはチベット仏教式の仏塔がある。
 なかには、階段がついていて登ることができる。階段にも特徴があり、螺旋型に廻るのでなく、直角に曲がってゆく。
 高さは、チベット式の仏塔を含み、39メートル。
 創建は五代十国の時代、952年。元、明、清を通じて修復されたあとがある。
 1940年代、鄭州が日本軍に占領されていた時代には、日本軍がこの塔の下に駐屯をしていた。

<ユウ里城遺跡>(ゆうりじょういせき)
 中国で最古の監獄、という言い方をされる。
 殷の末、殷最後の王である紂王が、周の文王を幽閉したところと伝える。文王は、周の武王の父である。殷の紂王は武王に滅ぼされることになるのだが。
 同時に、易経のふるさとともされる。
 文王は82歳で幽閉され七年間をここで過ごすのだが、その間、文王は八卦についての思索を深める。
 八卦とは、自然は陰陽の組み合わせである、という考えから陽と陰をそれぞれ記号で表し、これによって宇宙万物の生成、発展、消長を説明しようとするものであるが、周王は、更に思考を深め、六十四卦を考案したという。
 どこまでが真実かは別として、中国の民間では、太古の聖人伏羲が八卦を作り、周の文王が各卦に説明をつけ、周公(文王の子、武王の弟)が解釈し、孔子がその原理を明らかにした考えられている。

<岳飛廟>(がくひぎょう)
 安陽から南へ25キロ。湯陰県は、岳飛のふるさとである。
 岳飛は中国では「民族英雄」とされる。1103年、湯陰の農家に生まれる。時あたかも宋が、金からの強い軍事的圧力を受けている時代であった。岳飛は義勇軍に参加し、金との戦いで戦功をあげ、やがて節度使となり一つの軍事勢力を築くに至る。南宋では金との戦争継続を主張する軍人と講和をはかる官僚の間で対立が生じるが、岳飛は金との講和を推し進める宰相秦檜により謀反のかどで毒殺される。
 その後、元、清と漢族は異民族の支配を受けるが、民族の危機にあっていつも思い起こされたのが岳飛であった。
 創建は、明代の1450年。
 正殿には彩色の岳飛像が置かれる。その他、寝殿、岳雲殿、四子殿などの建築群を擁する。施全祠には、杭州の岳飛廟と同様、秦檜が跪いた像が置かれている。

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《嵩山》(すうざん)

 鄭州から西へ70キロ。登封県にある。古来、山岳信仰の地である。嵩山は東側の太室山と西側の少室山に分かれ、それぞれ三十六峰、計七十二峰と言われる。
 その山中には少林寺拳法でしられる少林寺もある。

<中岳廟>(ちゅうがくびょう)
 嵩山は五岳のひとつ。五岳とは、中国の山岳信仰の中心的な山を言い中岳の他は、泰山(山東省)、崋山(陝西省)、恒山(山西省)、衡山(湖南省)。
 秦の始皇帝が太室祠を建てたのが始まりという。漢の武帝、唐の玄宗、それぞれが中岳に詣ったときに廟を建てた。現在の廟の位置は、唐の玄宗が建てた場所である。
「中華門」と書かれた牌楼を潜ると、遙参亭、天中閣、嵩聖門、中岳大殿、御書楼などの建物が続く。壮大な規模を誇り、河南省最大の寺廟建築である。
 建築群のみならず、境内には樹齢千年を優に超えるコノテガシワの大木に囲まれ森厳な雰囲気に包まれている。

<少林寺>(しょうりんじ)
 寺の創設は北魏・孝文帝の時代。その後、孝明帝の時代に、インドの僧・普堤達磨がこの地で禅宗を開く。六世紀のこと。漢字名・普堤達磨、サンスクリット名はボーディダルマは北魏の時代にインドから中国に布教のために海路渡ってきた。禅の考え方はインドの仏教が本来的に持っているものであるが、宗派として成立をするのは中国においてであった。その開祖が達磨とされる。
 達磨は中国へ来て禅を説くが、中国にはインドの禅を受け入れる素地のないことを知り、嵩山の少林寺に隠棲。ここで壁にむかって坐禅をおこなうこと九年、独自の修行法を生み出す。(「面壁九年」)これが中国禅宗の元になった。
 また、日本のダルマ人形に腕がないのは、二祖の慧可が面壁中の達磨に対して、自分の腕を切りおとして入門の意志の固さをしめしたとする「慧可断臂」の伝説と「面壁九年」が混同されたためとされる。
 また、少林寺は、少林寺拳法の発祥地として知られる。これも、達磨により、修行法の一つとして伝えられたとされる。
 名が広まるのは、少林寺の十三人の僧徒が拳法により唐の太祖・李世民を救ったことによると伝え、白衣殿にはその様子を描いた「十三和尚唐王を救う」の絵が置かれている。

<塔林>(とうりん)
 少林寺の三百メートル西に、少林寺の歴代の和尚の墓地がある。墓が塔の形になっており、220余基林立していることから塔林と呼ばれる。
 最も古いものは、唐の時代。千年に及ぶ時間の中で、時代時代で塔の様式にも変遷があり、興味深い。

<打虎亭漢墓>(たこていかんぼ)
 鄭州から西南へ50キロ、密県にある。鄭州から嵩山に向かう途中にある。後漢の時代の墓である。
 画像石墓と壁画墓の二基が一対になって造られている。
 画像石墓は、石の壁面にさまざまな画像が刻まれている。一方、壁画墓は、壁を白く塗り、その上からさまざまな顔料で壁画が描かれている。
 構造は同じで、甬道、前室、中室、後室、耳室からなり地下宮殿のように造られている。全長は、画像石墓が26.6メートル、壁画墓が19.8メートル。
 描かれているのは、画像石墓では、「迎賓図」「車馬図」「年貢を取りたてる図」などであり、壁画墓では「宴会図」「相撲図」などである。題材は豊かで、2000年前の人々の暮らしを彷彿とさせる。

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《洛陽》(らくよう)  九朝の都という。洛陽に都を置いた王朝が九ある。東周に始まり、後漢、三国の魏、西晋、北魏、隋、則天武后の周、五代十国の後梁、後唐の九つである。
 中国では河の北を陽、南を陰。山の南を陽、北を陰という。洛河の北にある都邑であることから洛陽と名付けられたといわれるが、九つの王朝がここに都を構えたのは、ボウ山を背にし、洛河を前にする風水の良さからであろうか。
 周の時代、紀元前11世紀の時代から唐に至るまで、長い間政治の中心を長安の分け合う存在であった。それだけに、「洛陽の紙価をたかしむ」などという言葉を生んだり、また、中国最初の仏教寺院があったりする。

<龍門石窟>(りゅうもんせっくつ)
 市街の南14キロ。伊河の畔の岩山に掘られた石窟寺院。
 敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟とならび中国三代石窟と呼ばれる。
 西暦493年に北魏が大同から洛陽に遷都をしてきた。孝文帝の時代である。その時から、雲崗の石窟を受けつぐ形で開削が始まった。
 それら唐の時代まで、およそ400年にわたって掘り続けられ、残された洞窟は1352、仏龕750、仏像97,000、碑刻題記3600余りという。
 三大石窟というものの、それぞれの岩質に違いがあり、敦煌はあらい礫岩層のため彫刻には向いていない。むしろ、壁画や塑像が多くつくられた。また、龍門、雲崗は共に彫像が多いが、雲崗には大規模で雄渾な仏像が多いのに対して、龍門では繊細で流麗な作風が多い。これは、雲崗が砂岩質あり、一方龍門はかたい玄武岩や石灰質のためである。同じ理由で、龍門には、碑刻や題記が多く残されている。
 もっともはやく造営された窟を古陽洞という。北魏の時代以来、何回かにわたって造営の断続があった。ほぼ馬蹄形の平面で、窟頂は楕円形の穹窿頂とし、窟頂には装飾をほどこしていない。正面に座仏を、後壁の左右に菩薩立像をおき、他の壁面全体にびっしりと列龕が開いている。列龕には雲岡石窟を思わせる交脚菩薩像が数多くある。
 初唐期に石窟の造営はふたたび盛んになる。時代の精神を反映した豊満円潤な作風が特徴であるが、その代表は、潜渓寺、万仏洞、奉先寺洞、看経寺などである。
 その中でも注目すべきは、奉先寺洞である。竜門石窟で最大の石窟であり、3年9カ月をかけて675年に落成。20m以上の高さの山腹に、幅33.5m、奥行き38.7m、高さ40mもの空間を切り開き、その中央に高さ17.14mの盧舎那仏像が彫られている。顔は則天武后をモデルにしているという。その脇には、迦葉、阿難の二比丘、二菩薩、二天王、二力士のあわせて九尊の大像を彫りだしている。大仏台下の銘文によると、高宗の造建で、皇后則天武后も化粧料2万貫を醵出し造営をたすけたとある。

<白居易墓>(はっきょいぼ)
 龍門の石窟の、伊河を挟んだ対岸にある。香山という小高い山に直径十数メートルの円形の煉瓦の墓がある。
 白楽天ともいい772年の誕生、没年は846年。
 二十七歳で進士の試験に合格し官吏の道を歩む。一時は九江などに左遷されることもあったが概ね順調な官僚生活を送った。
 詩文の才能は若くして発揮され、「長恨歌」や「琵琶行」などが代表的な作である。
 白居易自身の自選による「白氏文集」(成立は845年)には、3800編を越える詩がおさめられている。この「白氏文集」は日本にも伝わり、平安貴族の基本的な素養となるまでに親しまれた。

<白馬寺>(はくばじ)
 市の東10キロ。中国最初の仏教寺院と伝えられる。
 後漢の明帝(在位57〜75年)が夢のお告げで使者を西方に使わす。使者となったのは蔡インと秦景。二人は天竺にいたって摂摩騰、竺法蘭のふたりの高僧に出会い、同道して帰国した。このとき、二人の高僧は白馬と経典と仏像を乗せて洛陽に着いた。これが中国に仏教がはじめと言う。
 この時、インドの高僧の住居として建てられたのが白馬寺の始まりという。
 山門を入ったところに彼らの墓もある。
 現在の建物は、元代から明代にかけての再建である。

<関林堂>(かんりんどう)
 三国志の関羽を祀った関帝廟である。中国で「陵」というのは皇帝の墓を言う。「林」と名付けられるを許されているのは、孔子の一族で、山東省曲阜にある孔子一族の墓を「孔林」という。「関林」という呼び方は、その尊敬の程度の高さを示している。
 関帝廟は全国にあるが、これが最初のものという。
 規模は壮大で、大門、儀門、鐘鼓楼、拝殿、大殿、二殿、三殿、塚と続く。
『三国志演義』である。三国時代の219年。劉備の命により荊州の城を守っていたが、魏と呉の挟み撃ちにあり、呉の孫権に捉えられる。降伏を勧められるが、拒み首を切られる。首を切ったものの災いを恐れた孫権はその首を木の箱に入れ昼に夜を継いで洛陽の曹操に届ける。曹操大いに喜び箱を開け笑いながら、「雲長どの、一別以来お変わりはなかったか」。すると、関羽の眉が動き、髯も髪も逆立った。曹操驚き昏倒する。曹操は慌てて洛陽の南門外に手厚く葬る。第七十七回である。
 

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