旅チャイナ(トップ)楼蘭倶楽部(トップ)楼蘭百科探険者たちの楼蘭楼蘭への道カイラス倶楽部


 

歴史の中の楼蘭
【史記・大宛列伝】
【史記・匈奴列伝】
【漢書】
【後漢書】
【カロシュティー文書の中の楼蘭】
【法顕伝】
【魏書】(楼蘭の滅亡)
【大唐西域記】
【東方見聞録】
【歴史年表】
《史記・大宛列伝》
「楼蘭」の名が初めて史書の上に登場するのは、『史記』の「匈奴列伝」においてであるという。
 匈奴の力が漢にまさり、漢が毎年絹や綿、酒や米を贈ることで和平を保とうとしていた時代のことである。
 匈奴の王が漢の皇帝に手紙を書く。匈奴の王は冒頓単于、漢の皇帝の名は孝文帝。紀元前176年のこと。
「天がお立てになった匈奴の大単于は、つつしみて皇帝に挨拶を送る。お変わりはないか。(略)天の降したもうた福運によって、軍官兵卒はすぐれ、戦馬は力強く、月氏を滅亡させ、全員を斬り殺したり降伏させたりした。楼蘭・烏孫・呼掲およびその近辺の二十六か国を平定し、すべて匈領土とした。」(岩波文庫、小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳)

 匈奴に武力は強大であった。月氏はイラン系遊牧民族であるという。春秋戦国時代に現在の甘粛省あたりに勢力をもち、その後の秦・漢時代には中央アジアを支配した。匈奴はその月氏に壊滅的な打撃を与える。月氏は西走し、パミールを越えて今のアフガニスタンに至り大月氏を建てることになる。
 そして、匈奴はタクラマカンのオアシス国家を全て支配下におく。楼蘭は、その平定された西域の国々のひとつとして登場するのである。華々しいデビューというわけではなかった。

↑ ページのトップへ

《史記・匈奴列伝》
 同じく『史記』の「大宛列伝」にも「楼蘭」の名はしばしば登場する。ただし、「匈奴列伝」が初めて楼蘭を登場させて時代と「大宛列伝」の時代では、背景が大いに変わってきている。
 漢の皇帝は武帝。劉邦から数えて第七代。国力は充実し、絶頂期に入る。匈奴との関係も、今までの融和策をやめ、正面から武力でぶつかろうとする。衛青や霍去病の登場である。匈奴に西に追われた大月氏と組んで匈奴を挟撃すべく使いを大月氏に送る。張騫である。この計画そのものは実らないが、張騫により西域への理解と関心が一挙に高まることになる。
 特に武帝の関心を引いたのは大宛に産する「汗血馬」であった。肩から血のような汗を流して、一日に千里を走るという。武帝は、その馬を得るために大宛に二度にわたり大軍を送る。大宛は、今のウズベキスタンのフェルガナである。長安からの距離は五千キロ。ほとんど信じられないような話である。それが「大宛列伝」である。
 張騫はこうも言う。
「大宛の北は康居、西は大月氏、西南は大夏、東北は烏孫、東はウビとウテン(コータン)です。ウテンから西では、川はすべて西に向かって流れ、西海(アラル海)に注ぎます。ウテンから東では、川は東に向かって流れ、塩沢(ロプノール)に注ぎます。塩沢は地下水となって流れていきます。その南で地上にでて黄河の源となります。硬玉や宝石が多く産出され、黄河は中国へと流れこみます。ところで、楼蘭と姑師は、まちの周囲に城壁があり、塩沢に臨んでおります。塩沢は長安から五千里ほどの距離にございます。匈奴の右方(西部)は塩沢から東、隴西の長城までの地域で、南は羌族と隣接しており、漢への交通路が遮断されているのです。」(岩波文庫、小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳)
 このようにロプノールが中国の史書に登場する。そして、楼蘭がロプノールの畔にあり、周囲に城壁がめぐらされていたことが知れる。
 この部分に少し注を施しておこう。

康居:トルコ系遊牧民と見られている。シル河下流域が居地。
大月氏:秦・漢時代河西からタリム盆地を支配していた月氏が匈奴に追われパミールの西、アム河上流に建てた国。
大夏:アレクサンダー東征のギリシャ人の建てたバクトリア王国とする説と、それを滅ぼしたトハラ人の建てた国という二説がある。
烏孫:中国の漢代にイリ河上流に住んでいた遊牧民。トルコ系とみられる。
ウビ: 
ウテン:ホータンのこと。玉を産することで知られた。
西海:アラル海のこと。カザフスタンの南西部からウズベキスタンの北西部に広がる塩湖。シル−ダリアとアム−ダリアが流入。
黄河:記載は事実ではなく、ロプノールと黄河の源流は何百キロも離れている。
五千里:一里は500メートルにあたる。
姑師:不詳
羌族:現在の青海省など、中国の西北部に住むチベット族。

 衛青と霍去病の登場は、それまでの漢と匈奴との関係、匈奴が攻め漢が守るという構図を一変させる。
 大将軍・衛青は 匈奴に出撃すること七度、斬首・捕虜五万余。驃騎将軍・霍去病は匈奴に出撃すること六度、斬首・捕虜十一万余。「大宛列伝」はこう伝える。
「この年、漢は驃騎将軍(霍去病)を派遣して西城にいた匈奴族数万人をうち破らせた。かれは祁連山まで行った。
 その翌年(元狩二年、前一二一年)、匈奴の渾邪王が配下の人民をひきつれて漢に降伏した。そして金城・河西から西方、南山ぞいに塩沢(ロプノール)に至るまでの地域には、すっかり匈奴族はいなくなった。」

 しかし、漢の軍隊がいつまでもいるわけではない。しかも、楼蘭にとり漢は、いかんせんあまりに遠い。すぐそばにいる匈奴から圧力の方が現実的・日常的な脅威であった。漢に従おうとすれば匈奴が許さず、匈奴と結ぼうとすれば漢が怒る。漢と匈奴の二大軍事強国に挟まれた悲劇は楼蘭を含めた西域オアシス国家の共通の宿命であった。
「そして、楼蘭や姑師は小国にすぎないのに、交通の要地にあたっていたから、漢の使者を襲撃しては略奪を働き、王恢らはひどい被害を受けた。しかも、匈奴の奇襲隊がしょちゅう西方諸国への使者をさえぎって攻撃をしかけた。使者たちは口々に外国から受けた災難を強調し、それらの国は城壁のある都市だが、軍事力が弱いから討伐しやすいと述べたてた。
 そのため、天子はもと従驃侯であった趙破奴に命じ属国の騎兵と諸郡の兵あわせて数万をひきいて遠征させた。かれは匈河水まで行き、匈奴を攻撃するつもりであったが、匈奴はみな逃げ去っていた。その翌年(元封三年、前一〇八年)姑師を攻撃した。趙破奴は軽騎兵七百余りとともに先に到達し、楼蘭王を捕虜とし、さらに姑師をうち破った。そして軍事的威力を誇示することによって、烏孫や大宛などの諸国を威圧し、帰国した。趙破奴はサク(さんずいに足)野侯にとりたてられた。」
「属国の騎兵と諸郡の兵あわせて数万をひきいて遠征させた」。こういう何気ない表現にも、属国・小国の悲劇が表れている。漢に、征けと命令されればイヤでも隣のオアシス国家を攻める闘いに参加しなければならなかった。城壁があるが弱いから討伐しやすい、などと攻められては堪らないが、これが、楼蘭王国の置かれていた現実であった。

↑ ページのトップへ

《漢書》
『漢書』の「西域伝」はこう書き始められる。
 ゼンゼン国は、もと国名を楼蘭といい、王はウデイ城に治し、陽関を去ること千六百里、長安を去ること六千百里。戸数は千五百七十、人口は一万四千百、兵士が二千九百十二人いた。(略)その地は塩土の砂地で、耕田が少なかったため、他国の田を借りて苗を植え、また近傍の国の穀物を買い入れた。国内に玉を産出し、葭・葦・テイ柳・胡桐・白草が多い。民は牧畜に随うて水・草を遂いもとめ、驢馬がおり、駱駝が多い。

『漢書』では楼蘭は名をゼンゼンと変えて登場する。「王はウデイ城に居る」。ここに至る経緯が次のように書かれている。
 漢は趙破奴に楼蘭を攻めさせる。匈奴に通じていてけしからん、と。ここまでは、前掲の『史記』にも書かれている。楼蘭は降伏し貢ぎ物を献じる。すると、今度は匈奴が黙っていない。匈奴にも攻められる。やむを得ず、王は一子を匈奴に人質として差し出し、別な一子を漢にも差し出す。こんなことを繰り返すうちに大きな事件が起きる。
 元鳳四年というから紀元前七七年、漢から遣わされた傅介子が楼蘭王・安帰を暗殺してしまう。そして、首を切り落とし早馬で長安に運び門に晒す。楼蘭を漢の属国とし、名もゼンゼンに変えさせ、新しい王に尉屠耆を任命する。
 殺された安帰と新しい王となった尉屠耆は兄弟であった。一代前の王と同様、彼らの父は、安帰を匈奴へ、尉屠耆を漢へ、人質に出していたのであった。
 漢に居た尉屠耆は、楼蘭に王として赴くにあたり、自ら天子に願い出るに、「長く漢にいたので帰国しても孤立して弱い。前王には息子もいる。殺されるのではないかと思う。ついては、国内に伊循城という所があり、土地は肥沃でるので、願わくば漢から一将を派遣しそこで屯田をし、私の後ろ盾となってもらうわけにいかないか」、と。漢はそれを許した。司馬一名と吏士四十名をつかわし、伊循に屯田してこれを鎮撫させたのである。

 井上靖が「楼蘭」で小説化したのは、この経緯である。楼蘭の人々が楼蘭を去る直前に自殺をする若い女性は、前王安帰の妃である。また、楼蘭人は、この時点で、楼蘭を捨て伊循に向かったことになっている。そして、伊循とは「二百五十マイル離れた新しい都城ゼンゼン」のこととなっている。

 実は、「楼蘭」というのがよく分かっていない。『史記』まではまだいいのだが、『漢書』になるともう分からない。
 漢は尉屠耆の願いを聞き入れ、伊循に屯田をした。それは良い。では、伊循とはどこなのか? スタインは、伊循とはチャリクリクと考えた。ヘルマンは米蘭だとした。
 しかし、尉屠耆が願ったのは屯田をしながら後ろ盾になって欲しいということであった。米蘭にせよチャリクリクにせよ、そんなところに四〇名を派遣してもどうにもならないであろう。楼蘭からは優に三百キロは離れている。そんなことを、切羽詰まった尉屠耆が願うだろうか?
 もつひとつ。西域記の書き出し。「ゼンゼン国は、もと国名を楼蘭といい、王はウデイ城に治す」。では、ウデイ城ってなんだろう。 ウデイ城=伊循だろうか。だとしたら、同じ『漢書』の同じ「西域伝」の数ページ前後するだけの記載のなかで二つの地名が使われるのは不自然である。
 先に、伊循に関するスタインとヘルマンの説を紹介したが、彼らは、実は、こう考えた。ウデイ城と伊循は、一方がチャリクリク、一方が米蘭と。その組み合わせが違うだけであるのだ。
 これであれば、ウデイ城と伊循は近くなる。後ろ盾になるだろう。
 ここで、もうひとつ、疑問が浮かぶ。では、紀元前七七年の時点で、楼蘭の人はロプノールを捨て、チャリクリクだか米蘭だかに移っていったのだろうか? 井上靖の小説「楼蘭」のように。
 しかし、楼蘭の城が残っていたことは確かなことだ。スタインらが楼蘭の遺跡から発掘した漢文の木簡や紙片、 カロシュティー文書 などにより、紀元三世紀から四世紀には、楼蘭で人々の暮らしが営まれていたのは確実なことなのだ。ゼンゼン国の都城であったかどうかは分からないが。
 では、伊循とは何だ?
『漢書』「西域伝」の「王はウデイ城に治す」とは何のことだ?

 楼蘭は未だに謎だらけである。

 楼蘭の面白さというのは、一面、その謎の深さにあるのかも知れない。ヘディンやスタインの調査によって、新たに分かったことがある。同時に、その発見によって、謎がさらに深まったという面もある。
 ヘディンが発掘した漢文の文書に「楼蘭」と記してあった。また、スタインが発掘したカロシュティー文書からは「クロライナ」と読め文字の綴りが見つかった。
 その結果、人々はこう考えた。この地は、やはり、楼蘭なのだ。そして、漢字で楼蘭と表記されるこの土地は、アーリア系と想定される住民は自らの地をクロライナと呼んでいたのだ、と。クロライナの中国語読みが楼蘭なのだ、と。
 中国の史書にはクロライナなどという名は出てこないわけであり、非常に有益な資料である。
 ここまではいい。ただ不思議なことがある。これらの出土文書は紀元後の三、四世紀頃のものとされるのだが、先に見たように、紀元前七七年、楼蘭はゼンゼンと名を変えさせられたはずだ。それから三百年も四百年も経って、なぜ、「楼蘭」なのだろう? また、紀元前七七年、「クロライナ」とう現地の呼び方は変えなかったのだろうか? しかも、もうひとつ不思議なことに、発掘された漢文資料のなかに、「ゼンゼン」という国名はどう探しても見当たらない。どういうことなのだろう?

 こういった謎は、いまだに、謎のままである。研究者たちの説くところもさまざまである。梅原郁氏はそれらを次のように三つの説に区分・整理している。分かりやすい整理であるので、そのまま引用させていただく。(「ゼンゼン国の興亡」、京都大学学術出版会『流沙出土の文字資料』所録)

@楼蘭=ゼンゼン=ウデイ城で、伊循城の場所は必ずしも明らかではない。王は一貫してもとの楼蘭におり、のちにそこがクロライナ王国の首府になる(榎一雄、長澤和俊氏)。
Aゼンゼン=ウデイ城=ミーラン、伊循城=チャルクリク、すなわち両者を南道のチェルチェン川流域に持ってゆく(藤田豊八、大谷勝真、松田寿男、内田吟風氏)。
BAと結果的には似てくるが、尉屠耆が中国から帰ったとき、国都を南に遷した。したがって楼蘭はゼンゼン国の領域内にはあるが、国都は南のウデイ城で、その東に伊循城がある。いずれもチェルチェン川の流域に位置する(中国の研究者の大勢)。

↑ ページのトップへ

《後漢書》
 前漢(前二〇六〜後八)から後漢(後二五〜二二〇)に時代が移ると、楼蘭を取り巻く環境も大きく変わる。何よりも、中国の西域経営に対する熱意がトーン・ダウンする。
 タリム盆地の情勢は、大きく、中国と匈奴の「力のバランス」の振り子のなかで揺れていたのであるから。

 前漢の滅亡、新朝樹立、後漢の復興の時期には楼蘭を含むタリム盆地の諸国は匈奴に従属した。
 その中から莎国(ヤルカンド)がひとり次第に勢いを増してくる。匈奴にも隷属することなく独立をまっとう、王康の時代になると西域五十五国を支配下に置くようになる。
 康が死ぬと弟の賢が王位を引き継ぎ、三八年、ゼンゼン王安とともに後漢に使いを送り貢ぎ物を献ずる。これにより、漢と西域諸国との交易が再開されることになる。
 更に、四一年、賢は再び使いを送り、西域都護の印綬を求める。光武帝は同意するものの、敦煌太守裴遵は「例がない」と反対し、大将軍の印綬に変更される。
 以後、賢は漢に離反し、諸国を服従させ重税を課す。
 耐えかねたゼンゼン、車師前国、焉耆など十八国の王は連合でそれぞれの王子を漢に入貢させ西域都護の派遣を求める。四五年のことである。これに対する光武帝の回答はそっけないもので諸国を落胆させるものであった。  曰く「国内もまだ定まっていない状態で西域都護の派遣は無理である」、と。
 これを見た莎国王賢は、翌年、ゼンゼン王安に書信を送り、漢との断絶を命じてくる。安は使者を殺し抵抗の姿勢を取る。賢は大いに怒り直ちにゼンゼンを攻める。安はこらえきれず「南山」に逃れる。賢は楼蘭人千余人を殺害。
 権力を誇った賢であったが、六一年、ウテン王に殺される。これにより、西域諸国をとりまく情勢は一変する。
 いくつかの有力なオアシス国家が弱小のオアシス国家を併合しながら割拠する時代を迎える。ゼンゼン国は有力な少数の方に入っており、小宛、精絶(ニヤ)、戎盧、且末(チェルチェン)の諸国を支配下に置いたという。ゼンゼン国以外に有力であったのは、今のホータンにあったウテン国、トルファンにあった車師国である。
 この時代、ゼンゼン国の領土はかつてない広さになり、ロプノールからニヤまで東西九百キロに及んだ。シルクロードの南道について言えば、パミール以東を、ウテンとゼンゼンが勢力を二分する形で押さえていたことになる。

 こういうなかで登場してくるのが班超である。
 後漢の初代の皇帝は光武帝。二代目は明帝。光武帝は、前述した如く西域経営には消極的であった。これに対して、明帝は積極的な進取を図った。
 明帝の永平16年、紀元73年、奉車都尉竇固を西に征戦させ伊吾(現ハミ付近)で匈奴の軍を破る。その時の戦いにめざましい活躍をしたのが班超であった。
明帝はその手腕を買い、従事郭恂とともに、わずか三十六人の部下と西域に赴かせる。最初に到着したのがゼンゼン国。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。この故事は、この時班超が吐いた言葉である、と後漢書は伝える。
 ゼンゼン王広は、はじめ班超の一行を手厚くもてなしたが、その後、急に冷遇するようになった。匈奴の使者が来合わせたことに気付いた班超は、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と部下を鼓舞し、匈奴の宿舎を急襲し百数十名の敵を皆殺しにする。
 この活躍により、ゼンゼン王を味方にするとともに、威名を西域諸国に轟かせた。
 班超は、更に西に向かい、南道のもうひとつの雄であったウテンをも漢の支配下に置くことに成功する。
 班超は、これより三十一年間におよぶ歳月の間、西域に留まりその経営に一生を費やすことになる。
 最後まで漢の支配に抵抗をしたのは焉耆(カラシャール)であったが、紀元91年、班超は西域都護に任命されて、亀茲に治所を置き、94年、終に焉耆をも撃破する。ここに西域50余国、悉く質子を入れて漢への忠誠を誓わせることに成功する。
 以上が『後漢書』に記載されるところの楼蘭である。日本で発行されている楼蘭に関する著書にも、多く、このように記されている。
 ただ、どうも、シックリしない点が残る。
 どう言えばよいのか。
 莎国にいじめられて王は南山に逃げ込み、住民が千人殺される。そういう楼蘭(ゼンゼン国)がある。東西九百キロにおよぶ広大な版図を支配下に置く楼蘭がある。次いで、匈奴の使者におべっかを使う楼蘭があって、班超に帰順する楼蘭がある。どうも、統一し連続した楼蘭という国のイメージが像を結ばない。
 時間にして、わずか七、八十年の間のことである。
「50余国、悉く質子を入れて漢に内属した」ことと「ゼンゼンがニヤなどを支配」したこと。これは矛盾しないのだろうか。

 いずれにしても、紀元一世紀の後半、漢の威光は西域全体に及び、史上まれなほどの安定した状況になる。
 しかし、結果から見れば、そのほとんどが、班超個人の不退転の情熱と卓越した才能によってもたらされたものだったようだ。西域経営一筋に三十一年。彼が帰国し、71歳の生涯を閉じると(102年)、誰も、彼と同じ仕事ができる者はいなかった。後任の西域都は西域諸国を束ねているだけの求心力を発揮することができずに、107年には早くも都護符が廃止される事態になる。同時に、西域も事実上放棄され、またも匈奴勢力の南下を招くことになるのである。

↑ ページのトップへ

《カロシュティー文書の中の楼蘭》
 1901年、スタインはニヤ遺跡で古代インド語に似た文字で書かれた木簡を発見した。しかも百余点も。のちの研究で、それが、紀元前から紀元四世紀頃まで西北インドで用いられたカロシュティー文字であることが知れる。
 同じ1901年、ヘディンは、楼蘭でカロシュティー文字の書かれた木簡を二点、発掘する。
 この事実は世界を驚かせた。
 漢籍の資料からは、想像もつかないことであったからである。
 このカロシュティー文字で書かれた文書類を カロシュティー文書 という。

 なぜ、西北インドの クシャン朝 で使われた文字が、遠く離れた楼蘭やニヤから出てきたのか?
 クシャン朝、もしくはクシャン朝の人々に統治されていたからだ、ということになるらしい。以下、長澤和俊氏の書かれたものをそのまま引用させていただく。(『楼蘭古城にたたずんで』朝日新聞社)

 かつてブラフ教授は、二〜四世紀のゼンゼン国の歴史を次のような三期に分けて考察している。  第一期はおそらく二世紀後半に始まる時期で、この国はクシャン帝国の管轄下にあり、ガンダリー語とカロシュティー文字が導入された時期である。第二期は三世紀前半で、クシャン朝がササン朝に滅ぼされた結果、ゼンゼンが自己の支配者によって独立した時期、第三期は西晋の西域進出によって征服されたゼンゼン王が、中国の宗主権を認めていた時期である。
 このことから考えると、二〜四世紀のゼンゼン王国にはクシャン朝の移民団が進出し、プラクリット語による公文書をカロシュティー文字で記録し、法制・慣行その他に西北インド的な要素をもつ国家を形成していたと考えざるを得ない。これは第二次大戦の敗戦直後、進駐軍支配下のわが国の行政が、すべて英語で動かされていたのと同じ現象である。  すなわち前七七年に前漢が設立したゼンゼン王国(仮にゼンゼン第一王朝と名付けたい)は、二世紀の後半か三世紀の初め頃にクシャン朝文化をもつ移民団に滅ぼされ、この移民団を中核とするゼンゼン第二王朝が成立したと考えられるのである。
 ただしこのゼンゼン第二王朝が直接西北インドのクシャン朝の管轄下にあったかどうかは定かではない。 カニシカ王 の出身はホータンとの説もあり、この時代のホータン地方はクシャン朝の影響下にあったものと思われる。

↑ ページのトップへ

《屯田の時代》
 漢が滅亡し、中国は三国時代に入る。魏、呉、蜀の三国の鼎立を統一するのが魏。魏が倒れて興るのが晋。そこから五胡十六国、南北朝へと時代は進んで行くのだが、この魏と晋の時代、中国は楼蘭の軍事植民地とし、屯田兵を派遣することでその経営を図る。
 それを最初に実現させたのは、魏の索勵という将軍であった。
 中国の古代の地理書に『水経(すいけい)』というのがある。全国の河川の状況を述べる。成立年代は不明であるが後漢から三国時代とされる。それに、実地体験と膨大な文献からの詳しく註を施した書が、『水経注』で北魏のレキ道元の著という。その『水経注』は、索勵をこう書く。
「索勵は敦煌出身。字は彦義。才覚のある男であった。地方長官の請願により貳師将軍となった。酒泉および敦煌の兵千人を率いて楼蘭にいたり屯田を開き白屋を建てた」。
 紀元260年頃のことである。
 魏は265年には滅ぶが、屯田政策は次の晋(西晋・265年〜316年)にも受け継がれることになる。
 ヘディン、スタイン、橘瑞超など、さらには近年の中国隊により発見された漢文の木簡や残紙は七百枚を越えるが、判読される書かれた時点での紀年の上限は263年、下限は330年である。
 それらから読み取れる屯田の組織、規模は次の通りであろうといわれる。
 長官は西域長史という。駐屯地は、楼蘭古城、スタインにLAと名付けられた地点。その下に、司馬、督郵、功曹、主簿などが置かれていた。また、実際の屯田や戦闘の部隊としては、二十名から三十名を一つの単位として部隊を編成し、全体では五百名程度の規模であった、と。
 彼らは、ここで農地を開墾し、馬を養い、自給自足をしながら平時の監視、交通路の確保、戦闘への備えをしていた。

 この時、おそらく、楼蘭は、それがかつて持っていた交易の中継点・オアシスとしての機能は失っていたのであろうと思われる。シルクロードの幹線はロプの砂漠を経由せず、敦煌から北に向かい伊吾(今のハミ)に出て、そこから西へトルファン・焉耆・コルラ・クチャと行くか、ロプの砂漠を渡る場合にも、楼蘭よりも北よりの道をとって営盤に宿し、そこからコルラにでたか、であったと想像される。
 

↑ ページのトップへ

《法顕伝》
 法顕は東晋時代の僧である。
 漢が滅んだあと、三国時代の戦乱を統一するのは、魏の権臣司馬炎である。それが晋。二八◯年に呉を滅ぼし中国を統一するが、三一六年には匈奴の劉曜に滅ぼされる。翌年、一族の司馬睿は建業(今の南京)に拠り晋を再興する。それが、東晋である。四一九年まで続く。
 仏教の経典を三種に分け、経蔵、律蔵、論蔵というが、法顕は中国に律蔵の欠けていることを無念に思い、自ら経典を求めインドへ旅立つ。往きは陸路帰りは航路、十四年にわたる旅であった。その記録が『法顕伝』である。
 現存する最古の西域旅行記であるという。
 何よりも凄いのは、生年は未詳ながら、西暦399年、出立の時にはすでに六十四才、帰国は七十七才と推定される点である。恐ろしいほどに精神力の強い人であったのだろう。
 長安から敦煌に向かう。敦煌で一ヶ月滞在した後、西へ旅立つ。

 敦煌太守李浩が資金を提供してくれ、沙漠を渡った。沙漠のなかはしばしば悪鬼、熱風が現れ、これに遭えばみな死んで、一人も無事な者はない。空には飛ぶ鳥もなく、地には走る獣もいない。見渡すかぎりの沙漠で行路を求めようとしても拠り所がなく、ただ死人の枯骨を標識とするだけである。
 行くこと十七日、距離にしておよそ千五百里でゼンゼン国に着いた。その地はやせており、俗人の衣服は大体中国と同じで、ただ生地が毛織物である点が異なっている。その国王は仏法を奉じ、国内にはおよそ四千余人の僧がおり、すべて小乗学である。諸国の俗人と僧侶はことごとくインドの仏法を行っているが、内容は精粗さまざまである。この国から西方の通過した諸国は、大体みなこのような状態であった。ただ国々の言葉は同じでないが、出家の人は、みなインドの言語と文字を習っている。
 ここに一月滞在し、また西北に行くこと十五日で、焉耆国に到った。焉耆国の僧もまた四千余人いる。

 さて、また、『漢書』の項目で触れたと同じ疑問が湧いてくる。
 法顕が立ち寄った「ゼンゼン国」とは、何処のことだろう?
『漢書』に謂う、「ウデイ城」だろうか「伊循」だろうかそれとも「楼蘭」であろうか。現在の地名であれば、米蘭であろうかチェルクリクであろうか、楼蘭であろうか?
 ここでいうゼンゼンをロプノールにあった楼蘭ではなく、南の米蘭かチェルクリクであると考える学者が多い。
 この時代には、コンチェ・ダリアの水の流れは止まっていたと考えられているからである。
 それ故、ゼンゼンは都をロプノールから米蘭かチェルクリクに移したのであり、ロプノールの楼蘭は、漢の軍事的な要塞としての機能しか果たしていなかったのだと考えるからである。
 だとすれば、それから千年後、マルコポーロが父親たちと「ロプ砂漠」を越えたと逆な道で法顕は西に向かったことになる。
 ただし、法顕が留まったゼンゼンをロプノールにあった楼蘭であると考える人もいる。長澤和俊さんなどがそうである。

↑ ページのトップへ

《魏書》(楼蘭の滅亡)
 一般に『魏書』「西域伝」の次の一節をもってゼンゼン国の滅亡とされる。

 世祖は散騎常侍の成周公万度帰にみことのりをして、涼州の兵を発しゼンゼンを討たしむ。万度帰は敦煌に到着するや輜重車を留め、軽騎五千を率いて流沙を渡り国境に至る。ゼンゼンの人々は多く野に散在す。万度帰は兵士や官吏を戒め、侵略をさせず。ゼンゼン辺境軍の長はみな感心し魏軍の旗を見るとこれに降伏した。そこでゼンゼン王真達は、面縛して降伏した。度帰はその縛めをとりのけ、魏軍を駐屯させ、真達を伴って魏の都に帰る。世祖大いに喜び、手厚くもてなした。この年、交趾公の韓牧を仮節征西将軍西戎校尉ゼンゼン王とし、もってゼンゼンに駐屯させ、中国の群県なみの賦役を課した。

 四四八年のことである。中国人の韓牧が王として派遣され、内地の群県と同様の扱いになったことをもってゼンゼン国は王国としての終わりを告げることになる。

↑ ページのトップへ

《大唐西域記》
 言わずと知れた玄奘法師三蔵の紀行記である。書いたのは玄奘自身ではなく、弟子の弁機。
 二十世紀前半、探険の時代に、スタインにしてもペリオにしても中央アジアへ足を踏み入れる際には、必携の書であったという。もちろん英訳本である。橘瑞超もしかり。彼が携えていたのは漢文の書であったが。
 二十世紀の探検隊が七世紀に書かれた紀行記を片手に沙漠に入っていったことの意味は深い。千三百年。沙漠に埋もれた遺跡たちの眠りの深さなのかも知れぬ。

 玄奘の出立は629年。国禁を犯して、ひとり密かにインドへ旅立った。二十八歳であった。十三歳で出家し修行を積んだ、各地の高僧にも師事した。ただ、どうしても判然のしない疑問が残る。仏教発祥の地・インドへ行く他はない。よほどの切羽詰まった衝動がなければ実行しまい。よほどの情熱と意志がなければ灼熱の極寒の沙漠や峻嶺を越えることはできまい。
 帰着は645年。歓呼の嵐に迎えられての帰国であった。持ち帰った経典は657部。その後の中国仏教に決定的な影響を与えた。

『大唐西域記』は全一部12巻。タリム盆地に関する記述は、往路が1巻に帰路が12巻にある。往路は高昌国、今のトルファンから始まる。長安から高昌国に至る順路はこの書には記されていないが、玄奘の伝記である『大慈恩寺三蔵法師伝』から知ることができる。敦煌から西に向かわず、北に向かう。そして当時の伊吾、今のハミに出て、そこから天山南路を西に道をとる。

 『大唐西域記』に「楼蘭」の名が出るのは、12巻。それも最後の最後である。

 さらにここ(今のチェルチェン)より東北に行くこと千余里、納縛波の故国に至る。即ち楼蘭の地である。(訳は水谷真成・平凡社『中国古典文学大系22』以下同じ)

「納縛波の故国」とは何という国を言っているのか? ここにいう「楼蘭」とはどこのことか?
 先ず、ここに謂う「楼蘭」は、七世紀のことであるから、ロプノールの北岸にあった楼蘭ではなく、米蘭のことであろうと思われる。
 そして、納縛波であるが、米蘭より多くの カロシュティー文書 が発掘されていることより、三世紀から五世紀にかけてロプノールを支配したとされる西北インドのクシャン王朝の遺民による国を言っているものと思われる。
 いずれにしても、現在の研究では余りに多くのことが分かっていないのだが……。

 上の引用のひとつ前はチェルチェンである。こう言う。

 城郭は高く聳えているが、人煙は跡絶えている。

 上の引用のひとつ前はエンデレ。こう言う。

 この国は久しく人の住むこともなく、城は全く荒れはてている。

 この引用のひとつ前は、ニヤからの大流沙。こう言う。

 ニヤ城より東行して大流沙に入る。砂はながれただよい、集まるも散るも風のままで、人は通っても足跡は残らずそのまま迷ってしまうものが多い。四方見渡す限り茫々として、目指す方を知るよしもない。かくて往来するには、遺骸を集めて見印とするのである。水草は乏しく熱風は頻繁に起こる。風が吹き始めると人畜共に目がくらみ迷い病気となり、時には歌声を聞いたり或いは泣き叫ぶ声を聞き、聴きとれている間に何所へ来たのかも分からなくなる。このようにしてしばしばいのちをなくしてしまうものがあるのも、つまりは化物の仕業である。

 二百数十年前の法顕を思い出せさせるし、また、六百年後のマルコポーロを連想させる文章である。流沙、熱風が人に喚起させる想いには、一定のパターンがあると言うことなのか……。
 それにしても、玄奘はエンデレを「覩貨邏の故地」と言い、チェルチェンを「折摩駄那の旧地」と言い、米蘭を「納縛波の故国」と言う。ある時期、西域南路に沿って、そう呼ばれた国々が栄えていたと言うことなのだろう。中国の史書のなかに、他では登場しない国名である。知らない国が栄えて記録にも残ることなくいつか流沙に埋もれて忘れ去られていった。

↑ ページのトップへ

《東方見聞録》
 マルコポーロがベネチアを発ったのは1270年。大都(現在の北京)に着くのが1274年。その間、ヤルカンド、ホータン、チェルチェン、ロプを経て沙州(敦煌)に向かう記録が残されている。
 楼蘭にもっとも近いのは「ロプ市」だと思われるが、マルコポーロは「ロプ市」をこう説明する。「ロプ沙漠という大沙漠の縁辺にあり住民はイスラム教徒である」、と。
 平凡社版『東方見聞録』の訳者である愛宕松男氏の註に曰く「Lop は漢代の楼蘭 Kroraina の地で、現今のロプ・ノール Lop-nor の南方に当たる」と。
 マルコポーロは更に言う。
 ロプ市はチェルチェンから五日間の旅だと。そして、
「この大砂漠を横断しようとする人々は、この町で一週間の逗留をなし、家畜並びに自身の英気を養う。この休養期間が終わると、彼らは人畜の食料一ヶ月分を携帯して初めて砂漠の中に進発するのである。」
 実際、マルコポーロは、「騎行三十日を費やして上記の砂漠を横断し」サチュー(沙州)市に到着するのである。

「騎行三十日」。
 この言葉より、反射的に、ふたつの疑問が湧いてくる。
(1)楼蘭から敦煌まで「騎行三十日」もかかるだろうか?
(2)マルコポーロは馬に乗って沙漠を渡ったのだだろうか。ラクダではなく。
(1)の問題は簡単である。『東方見聞録』のいう「ロプ市」は、楼蘭ではなく現在のチャリクリクである。
 愛宕氏が「漢代の楼蘭の地」と言っているのは、紀元前七七年、楼蘭王が漢の使者・傅介子に暗殺された後、ゼンゼンと名を変えさせられロプノール北岸の地を捨て南方に移ってからのことを言っているのである。
 因みに、敦煌から楼蘭までどれくらいの時間がかかったかというと、二十日ぐらいであったろうと想像される。

(2)である。『東方見聞録』のどこを探してもラクダに乗っていったとは書いていない。むしろ、始めの部分に「ニコロとマテオの両氏はニコロの息子マルコを同伴し、夏を渡り冬を過ごす騎馬の長旅を続けたあげく、ついにカーン宮廷にたどり着いた」、とある。で、あるなら、馬で行ったのであろう。
 しかし、それにしても、荷物を持った三十日の沙漠行には絶対にラクダが必要であったはずだ。ラクダとラクダ使いを雇う仕組み、あるいは、ラクダの隊商と一緒に旅する仕組みがあったのであろうか。「一週間の逗留をなし、家畜並びに自身の英気を養う」とは、そういうことをも含んでいたのかも知れぬ。

 さて、「ロプ沙漠」という大沙漠について、マルコポーロはこう言っている。
 夜間にこの沙漠を進むのは危険である、と。仲間から遅れたり取り残されたりすると精霊が話しかけてきたり彼の名を呼んだりしてとんでもない方向に連れて行ってしまう。いや、夜ばかりではない。昼間でも、精霊に魅入られることもある。楽器や太鼓の音が聞こえ、それに惑わされることもある。
 楼蘭の周りに広がる沙漠は、かくも恐ろしいものであった。

 最後にマルコポーロはこう言う。
「このため砂漠横断の旅行者たちは精霊に惑わされないようにとの用心から、夜になるとどのウマの頸にも鈴を釣り下げる」、と。
 先ほどの話に戻るが、とすれば、マルコポーロは馬に乗っていたのだろうか。

 それはともかく、夜中、馬の隊列が真っ暗な沙漠を進む。どの馬の頸にも鈴が釣り下げられていて遠く近くチリンチリンと鳴る。真っ暗だ。近く遠くチリンチリンだけが響いてくる。
 こういうもの、何か、不気味なものだ。  それにしても、楼蘭の名もゼンゼンの名も出てこない。マルコポーロは楼蘭の存在さえ知らず、名さえ聞くこともなくこの地を通ったのであろう。

↑ ページのトップへ

《歴史年表》
年代 出来事 中国の王朝
B.C3000年からB.C1000年頃 アーリア人(東方のインド・ヨーロッパ語族)が西アジアからタリム盆地に侵入。楼蘭をはじめ、この地のオアシス国家はこの頃から形づくられていったものと考えられる。 ========
     
B.C176年 この年に匈奴が平定した西域の二十六か国のひとつとして、中国の史書に初めて「楼蘭」の名が登場。史書の名は『史記』。
前漢
     
B.C109年 漢は趙破奴を派遣し楼蘭を撃つ。楼蘭王は捕虜となる。これにより、楼蘭は漢への朝貢の義務を負うことになる。同時に、匈奴にも朝貢を義務を負っていた。
前漢
     
B.C102年 漢の大宛国への第二回目の派兵。大宛国破る。漢の前線基地が酒泉から敦煌へ移る。 前漢
     
B.C77年 漢の使者・傅介子が楼蘭王・安帰を暗殺。これにより、楼蘭王国は滅亡。国名をゼンゼン王国とする。首都の在処については、楼蘭説、チャリクリク説、米蘭説がある。 前漢
     
3世紀〜4世紀 クシャン朝の植民国家の時期。クシャン人の王が君臨し、カロシュティ文書を用い、楼蘭に首都を置き、東は楼蘭から西はニヤまでの広い範囲で支配権が確立していた。 後漢
     
260年頃 魏は索勵を楼蘭に派遣し、屯田制を実施。
     
328年頃 「李柏文書」が書かれる。前涼の西域長史・李柏が、焉耆(カラシャール)王に宛てて送った手紙の草稿が「李柏文書」である。1909年橘瑞超によって発見された。 前涼
     
448年 魏軍に攻められゼンゼン王・真達は降伏。以後、魏より人を派遣しゼンゼン王とし、賦役に関しても中国の群県同様の扱いにした。これを以てゼンゼン王国の滅亡とされる。 前涼
     

↑ ページのトップへ


旅チャイナ(トップ)楼蘭倶楽部(トップ)楼蘭百科探険者たちの楼蘭楼蘭への道カイラス倶楽部