<オムマニベメフム>
チベットは祈りの王国である。チベット中に祈りが満ちている。
甘粛省のラブロン寺。
朝の五時、暗いうちから教堂では勤行が始まる。最盛期の三千人には及ばぬものの、現在七百名の僧を擁する。薄暗いなかに灯明の灯りが揺れ、読経の声が、うねるように湧き上がるように響く。冬の朝の冷たい空気をピリピリと振るわす。
その頃には、堂の外では、巡礼の人々が桑炉で柏の葉やツアンバを燃やす姿が見られる。真っ白い煙の中で両手を会わせる。話を聞いた老人は69歳。二十キロほど離れた草原に住んでいる。毎月、一日、五日、十三日の日には、真夜中に出発し馬で二時間かけて祈りに来るという。
すっかり明るくなる頃には、巡礼の群れがお堂をコルラする。右回り右回り。マニ車を廻しながら何回も何回も巡る。
お堂は幾つもある。十も二十も。どのお堂の周りにも、巡礼の群れがある。右回り右回り。
すべてのお堂を囲んで寺の塀がある。その塀の周りを、これまた、巡礼がコルラする。右回り右回り。
お堂のなかに祈りが満ち、お堂の周りにも祈りがあり、そのお堂が幾つもあって、その全部を取り巻いて、また祈りがある。
人々が口に唱える祈りの言葉は、「オムマニベメフム」。観音菩薩を称えるタントラ(真言)。「蓮華にある宝珠に幸あれ」という意味だという。「オムマニベメフム」「オムマニベメフム」。
少なくとも、チベット仏教では、蓮華の花弁は観音菩薩を象徴している。蓮華にある宝珠とは、観音菩薩にほかならない。「オムマニベメフム」「オムマニベメフム」。
チベットは祈りに満ちた地。不思議なところだ。
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<観音菩薩>
チベットの人々の信仰とは、観音菩薩がチベットの民を救い尽くす、という信仰である。
ポタラ宮という。ポタラという名は、サンスクリットのポータラカに由来する。ポータラカは観音菩薩の住むところを意味し、南瞻部洲(インド)にあったことになっている。
(ポータラカはインドから中国、日本にも伝わり、中国では、浙江省の舟山群島の普陀山をポータラカと考えた。日本では和歌山県の那智などを補陀落として信仰してきた)
また、ダライ・ラマが、チベットで絶対的な信仰を集めるのは、ダライ・ラマが観音菩薩の化身だとされるからである。
一方、パンチェン・ラマは観音菩薩の化身とされる。もともと仏教では、観音菩薩は阿弥陀仏の脇侍である。阿弥陀仏の左に慈悲無限菩薩としてひかえ、右には知恵の象徴である勢至菩薩がひかえる。
ところが、チベットでは、ダライ・ラマの方が圧倒的に上位におかれる。それは、自分たちを救うのは観音菩薩であるという信仰からきている。
では、なぜ、チベットでは観音菩薩が彼らを救うことになっているのか?
本願寺大谷光瑞の命を受けてタクラマカン砂漠に赴いたのが橘瑞超なら、チベットに向かったのは青木文教。ラサに滞在すること三年。その青木文教が著す『秘密国チベット』にこうある。
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チベット古代史にある伝説に従うと、西方極楽の在せる阿弥陀如来は、一日かの慈悲の分身であるところの観自在菩薩に勅して南瞻部洲(すなわちインドの地)に降り、無仏教地たるチベットに聖法を宣布せよと命ぜられた。観音菩薩は勅を畏みてインドに降臨し先ずその宮殿として、インドの南端に突出せるコモリン岬の抱ける港湾を俯瞰する大きな巌上にポタラを選定せられた。それから観音菩薩はこの世界における無仏の地たる「雪有邦土」すなわち今日のチベットに開教するため、早速「北方の雪邦」に向われ、神変力をもって猿猴及び羅刹女より人類を創造せられ、ついに仏法弘通の機縁を得られたものとある。
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こういうことから、チベット人は観音菩薩を自分たちの救済者として受け入れているとされる。
上にある「猿猴と羅刹女」の物語については、石濱裕美子氏の解説があるのでそれを引用させていただく。羅刹女とは女の羅刹。羅刹とは、人の肉を食う凶暴な悪鬼を言う。
まだ、チベットが無人の荒野だった頃、観音菩薩は一匹の猿を化現し、その猿に居士の戒を授けてチベットに瞑想修行に赴かせた。猿が岩山で瞑想をしていると、一匹の羅刹女がやってきてさまざまに媚態を示した。居士の猿が動じないと、羅刹女は娘の姿に化し、夫婦になることを迫った。それでも居士の猿が断ると「では、私は羅刹と結婚して、昼には万の生き物を殺し、夜には千の生き物を食おう。羅刹の子供を無数に産んで、有説の王国(チベットの美称)を羅刹の城にかえてやろう」といった。ここまでは、チベット版安珍・清姫伝説であるが、この先チベット版は日本版と異なって悲劇には終わらない。
居士の猿は「このものを妻にすれば戒律を破ることになるし、妻にしなければさらに殺生を行う結果となる」と悩み、ポタラの観音菩薩のもとに助言を求めに向かった。すると、観音菩薩も二人のターラも結婚を勧めたので居士の猿は羅刹女と夫婦になった。この二人の子供の末裔がチベット人の起源と言われている。
(『チベット歴史紀行』河出書房新社)
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<バターの灯明>
チベットの寺に満ちているもの。ひとつは祈りである。もうひとつある。それは、バターの焼ける臭い。ヤクの乳で作るバターである。
巡礼の人々は寺に詣でるとき、このバターを持ってお堂を巡り、奉納して歩く。人々から寄進された灯明で、お堂の灯りは消えることがない。「自分が捧げたバターで今も釈迦牟尼像が照らされている」。こう思うことは気持ちの良いことかも知れぬ。
さて、祈りとバターの焼ける臭い。これがチベット寺院には詰まっている。濃密な祈りと、濃密な臭い。
最初は、バターの臭いに違和感を感じるものだ。日本人のお寺に対するイメージ、あるいは美意識とは必ずしも合わない。動物質の臭い。テカテカした感じ。それこそバタくさい。
それでも、馴れて来るに従い、「なるほど。これで良いのだ」と思うようになる。
五ヶ月も六ヶ月もかけて巡礼がやってくる。なかには五体投地でやってくる人もいる。そういう信仰である。密度の濃い祈りがある。その濃さに合った灯明がヤクのバターである。選んだわけではない。チベットは不毛の地。ヤクのバター以外に灯明なんて考えられない。選んだわけではないが、チベットでは、祈りは濃密になり、灯明は臭くなる。
そこで祈りの対象になり、灯明に照らされているのは、赤や青の原色の仏画であり、人の骸骨を数珠繋ぎにして首からかけた忿怒の像であり、妃をかき抱いた歓喜仏であったりする。
そういう濃密さ、強烈さにおいて、ヤクのバターこそが見合っている。
というわけで、チベットの寺の魅力は、は濃密な祈りとバターの灯明の臭い。
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<五体投地>
チベット語でキャンチャ。
旅行案内書などには、「両手の掌を合わせ、はじめは頭、次に口、最後に胸にあてて、手を離し全身を前に投げ出す。チベットの定番的礼拝方法。ありがたい仏像の前ではあなたもどうぞ!」などと書かれているが、チベット人にとってはもう少し深刻なことかも知れない。
合わせた掌を、頭と口と胸にもってゆくのは意味がある。
仏教徒として縁起論を受け入れる。この世のすべての事には実体がない。あるのは、原因と結果の繰り返しだ、と。現世の自分は前世の自分の結果だと、この結果としての現世が、来世の原因になる。
輪廻という。何かが持続する。実体としての私が持続するのではない。原因と結果の輪が持続する。現世の間に、できるだけよい「原因」をなし、来世によい「結果」を残したい。少なくともチベット仏教はこう考える。よい「原因」とは、外界に対する良い働きかけであり、外界に対する働きかけというのは、身体、言語、意識の三つの門を通じて行われる。シャカムニの三つの門、身体、言語、意識を象徴するのが仏像であり、仏典であり、仏塔である。人においては、頭であり口であり胸である。
五体投地で、合わせた掌を、頭と口と胸にもってゆく。もってゆくだけではない。合わせた掌を頭に置きこう念ずる。「この身体がこれまでになしてきた罪を清めたまえ」と。口の前に置きこう念ずる。「この口がこれまでになしてきた罪を清めたまえ」と。胸の前に置きこう念ずる。「この心がこれまでになしてきたし罪を清めたまえ」。
こうやって、罪を罪として懺悔し、許しを求めるべく全身を投げ出す。
五体投地の意味を理解するためのポイントは、おそらく、輪廻する自分と、在ることによってなしてしまう罪、キリスト教の原罪意識にも似た罪の意識、にあるのだ。
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<コルラ(巡拝)>
聖なるものがある。その周りを廻る。それをコルラという。必ず、右回りに廻る。
日本人が神社にお参りをするときには、こういう参拝の形式は採らない。キリスト教もイスラム教も。
チベットでは、誰もが右回りに廻っている。渦を巻くように。例えば、ラサには三重の巡礼路があるという。一番内側は、ナンコル。チベットでもっとも聖なる寺院はジョカン(大昭寺)。そのジョカンで最も聖なる仏像は釈迦牟尼像。その釈迦牟尼像の周りを巡るのが、ナンコル(内環)である。人びとは無数に並べられたマニ車を廻しながら繰り返し繰り返し巡礼をする。
そのジョカン(大昭寺)を取り囲むのがパルコン(八角街)。仏像・仏具・経典、タンカ、お供え用のバター、絨毯、チベットの薬草、ナイフ、頭蓋骨まで、バザールの賑わいに似た環状の径がパルコン。人びとは、このパルコンを、右回りにコルラする。
五体投地で巡礼をする人、携帯用マニ車を廻しながら巡礼する人、仲間と談笑しながら歩く人。それぞれであり、全体には、内環のような緊張感はないが、ともかくも、聖なる寺・ジョカンを巡り無数の人びとが朝から晩までとぎれることなく、右回りに右回りにと渦を描いている。
最も外側にあるのがリンコル。ラサ市街のみならず、ポタラ宮をも含めた巡礼の径である。ダライ・ラマ十三世の信頼を得て、チベットで修行をすること十年に及んだ日本人僧・多田等観は『チベット滞在記』のなかでこのリンコルをこのように言う。
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全行程は五マイルくらいである。右手で常にマニ(摩尼輪)をまわし、左手に数珠を持ち、観音の真言オムマニペメフムを唱えながら進む。中には世間話をしながら歩くような者もないではないし、また逆に極端な最高の礼拝する者は路面に体を投げては礼拝しつつ進むので、朝から晩まで歩いて三日もかかる者もいる。また、ポタラ宮の前では、頭を地面にすりつけて礼拝する者がかなり多い。
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ラサに限ったことではない。チベットじゅうがそうである。山がある。そこに寺がある。寺にはいくつかの堂がある。堂には聖なる仏像があり、廟がある。人びとは仏像の周りを右回りにコルラする。廟の周りを右回りにコルラする。堂ごとにその周りを右回りにコルラする。そして、山に沿って寺の周りを右回りにコルラする。人びとは右手に手マニ車を廻しながら、左手に数珠を繰りながら、コルラする。
小さな渦がある。その渦を取り囲む渦がある。その渦を、また、取り囲む渦がある。その渦が無数にあって、どれもが右回りに廻っている。その無数の渦をもうひとつ囲って、それ自体が右回りに廻っている祈りの渦が「チベット」なのである。
礼拝の対象を常に右に見ながら巡る右繞の礼法は仏教以前から古代インドで行われていたもので、それが仏教にも伝わったという。
尊いものは右にある。どういうことであろうか?
ただ、ジョカンを歩いていても稀に、逆回りの人に出会う。彼らはボン教徒なのだそうである。
ボン教というのは、仏教伝来以前のチベットに広まっていたアミニズムである。山や峠や湖や河に精霊と悪霊の気配を感じ取り、積石をしたり、ヤクの頭の骨を捧げたり。インドからの外来宗教である仏教がチベットの地に根付くには、ボン教との葛藤と宥和が幾世紀にもわたってあった。経文を五色の布に刷り峠や屋根に掲げる。風が経文を読む、という。書いてあるのは仏教の経文だが、「風に読ませる」という意匠は、明らかにボン教のものである。
そのボン教徒は聖なるものに対して左回りに廻る。カイラスでも。
もともとの礼法と言うより、仏教伝来後、仏教への対抗上意図的にそうしたといわれている。
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<六道輪廻図>
どの寺の入り口にも六道輪廻図が掲げられている。生き物は、始まりもなく終わりもなく、無限に輪廻を繰り返す。仏教の基本的な世界観である。いや、「輪廻」は仏教の発明ではない。紀元前八世紀〜紀元前五世紀には、カーストの秩序を理論付ける思考として広く受け入れられていたという。「輪廻」と「業」の思想として。すなわち、人間の現世は、前世の行為(業)を刈り取っているのであり、現世の行為は来世に刈り取られる。人は、この無限の繰り返し(輪廻)のなかにある。現世におけるカーストの高低は、そのように決まっているのであり、現世においては低いカーストの人間も、カーストの儀礼にしたがって正しく生きれば来世はより高いカーストで生まれてくることができる、と。
「輪廻」とは、車輪が回転をする、という意味である。もちろん中国語であるが、この言葉の元になったのはサンスクリット語のサンサーラ=さまようの意)、その中国語訳だという。バラモン教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教などインドが生んだ宗教は、いずれもがこの「輪廻」を説く。
仏教は、カースト制を否定しながら「輪廻」と「業」を引き継いだ。人は、本来どのカーストにも属していないものだ、と。そして、無限の輪廻の中で畜生に生まれることあれば餓鬼に生まれることもある、と。それを永遠に繰り返すのだ、と人間の枠を越えて輪廻を想定してした。それが、六道輪廻である。
六道輪廻図は人の頭蓋骨で頭を飾った鬼が持つ輪として表される。その輪が六つに分かれ、上半分には中央に「天」、その右に「阿修羅」、左に「人」の世界が描かれる。下半分は、中央が「地獄」、その右に「畜生」、左に「餓鬼」の世界が描かれる。
チベット人は殺生を忌む。虫も殺したくない。彼らはこういう。「永い永い輪廻のなかでこの虫が、いずれかの過去生のなかで、自分の母親であったかも知れない」、と。私たちが実感を持ってその言葉を受け止めることは難しいが、いずれにしても、天地創造において世が始まり、終末において世が終わるキリスト的世界観と対極をなすイマジネーションである。
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<前伝仏教と後伝仏教>
チベットでは、仏教の伝来を二つの時期に分けて考えている。最初にこの考えを提唱したのは、チベット史上最高の頭脳の持ち主といわれるブトゥンであるといわれる。十四世紀のこと。
境は、十一世紀、インドの名僧・アティーシャがもたらした教えから以降が後伝仏教である。
古代チベット王朝の最大の英雄はソンツェン・カンボ(581年〜649年)。第三十三代の王である。彼の時代国力は唐をも圧するほどであった。
同時に、仏教がチベットへ導入される基を造った王でもあった。彼が武力を背景に唐とネパールから娶った王女は、それぞれに由緒ある仏像を持参してきた。そして、ジョカン(大昭寺)を創設したのはネパールから嫁いだ王女・ティツゥン妃であり、ラモチェ(小昭寺)の創設は唐からの王妃・文成公主であるという。前者はインド仏教招来の象徴であり、後者は中国仏教招来の象徴でもあった。
仏教の国教化は八世紀、ソンツェン・カンボの四代後、ティソン・デツェン王による。彼の時代は、古代チベットの黄金時代であった。安史の乱に乗じ唐の長安を一時占拠したり、敦煌を半世紀以上にわたり支配しシルクロードの交易を押さえるのもこの時期である。
ティソン・デツェン王は、仏教を積極的に擁護し、インドから密教行者パドマサンバヴァを招聘しチベット初の僧院サムイエ寺を建立する。このことは、インド仏教の、中国仏教との争いにおける勝利、同時に、チベット土着の信仰との争いにおける勝利を意味する。
ところが、九世紀になると事態は一変する。時の王、ダルマ王は土着のボン教を支持し、仏教を弾圧する。僧は還俗させられ、経典は焚書される。以後二百年、仏教は暗黒の時代を経ることになる。
このダルマ王以前の仏教を前伝仏教と呼ぶ。
この暗黒に灯明をもたらしたのが、インド僧・アティーシャである。彼の入蔵はその後のチベット仏教に決定的な影響を及ぼすことになる。そこからが後伝仏教である。
十一世紀になると、仏教はようやく復興の兆しを見せ始めていた。そんな中、仏教復興に熱心であった西チベットのグゲ国の王・イェシェ・ウーがが特にインドから招聘したのがアティーシャであった。アティーシャはマガタ国のヴィクラマシーラ僧院の大学僧、インド仏教界の至宝であった。
ヴィクラマシーラ僧院というのは、インド仏教最後の大拠点であった。普通、インドにおける仏教の終焉というのは一二〇三年とされるが、それは、イスラム勢力がヴィクラマシーラ僧院を陥落させたことをもって言われている。
アティーシャの入蔵と布教というのは、その意味で、大変に大きな意義を持つ。インド仏教陥落ギリギリのところで、インド仏教最後の至宝がチベットに引き継がれた、ということである。
グゲ国が彼を招聘するについては、こんな逸話が残されている。
イェシェ・ウーがトルコ軍に捕らえられてしまう。トルコ軍は、王の身体と同じ重さの金を要求するが、イェシェ・ウーは、その金をインドから高僧を招くのに使いなさいと言って自ら犠牲になる。アティーシャはその献身に心を打たれ、チベットでの布教を決意したという。
アティーシャの主著は『覚りに至る道を照らす灯』。
ツォンカパも、この論を基礎に教理・実践体系の集大成を行ったという。
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<ツアンバ>
チベット人の主食である。裸麦(チンコー)を炒って挽いて粉にしたもの。日本でいう「麦こがし」に当たる。
それに、バター茶を注いで、指でこね、適度の堅さ適度の大きさにして食べる。
チベットの大地は、ほとんどの地域で、裸麦以外の穀物を産しない。これを食べて成長し、これを食べて生きる。日本人にとっての白米よりも、もっと密接に人々の生活、人々の人生に結びついたものである。
フランス人のチベット学者フランソワーズ・ポマレは『チベット』(訳:後藤淳一)のなかでこういう。
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「1959年、インドのカリンポンで発行されている『ザ・チベット・ミラー』紙に、抵抗へのアピールが掲載された。このアピールはチベット人ではなく、「ツアンパを食べるすべての人々」に向けられたものであった。それほどに、大麦を炒って作られるツアンパは、チベット人のアイデンティティの象徴なのである。
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チベットに馴染みの深い日本人として真っ先に思い浮かぶのは河口慧海と西川一三である。一方は、明治の三十年代、大乗仏典の原書を求めて単身、鎖国中の、チベットへ向かう。一方は、第二次世界大戦の終戦を挟んで、モンゴル人に変装して蒙古から青海を越えてラサへ辿り着く。その体験記『チベット旅行記』と『秘境西域八年の潜行』は、読むに身震いがするほど凄い本であるが、ともに、ツアンバについての記述も多い。
河口慧海が関所を避け、雪のヒマラヤを越えてチベットに向かう場面である。
かつて日本を出発するとき、私は三年後にはチベットの国境にはいれよう。準備のため三年はかかると考えていたが、ちょうど三年目に、すなわち明治三〇年六月二六日に出発して、明治三三年七月四日にこの国境に着いたので、自分の想像が違わなかったうれしさに耐えられなかった。
とにかくからだが疲れているので、まずその辺で一と休みと思ったが、どうにも雪ばかりでよいところがない……。
そこで袋の中から麦焦しの粉を出して椀の中に入れ、それに雪と幾らかのバターを加えて、うまいぐあいにこねる。また一方の椀には、トウガラシと塩を入れておいて、そして一方の麦焦しを雪とバターでよくこねて、そのトウガラシの粉と塩とをつけて食うのである。そのうまさは、実に極楽世界の百味の飲食もこれにおよぶまいか、と思うほどうまかった。
そこでまあ椀で二杯くらい食うと、それでその日の食事はすむ。
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豪放でもあり、チベットの国境に着いた喜びにツアンバを食い、「極楽世界」の味と乙に入っているところはユーモラスでもある。
一方の西川も面白い。
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このザンバーをこねるにはなかなか熟練を要し、初めはお茶が多かったり少なかったりしてぐちゃぐちゃになったり、バサバサになったりでなかなか量加減がむつかしく、また左手で椀を回しながら、右指先でこねるのに大変な技術を要するのである。ザンバーをこぼし、落として胸前を真白くしたりするのが常である。またいくら椀を回しながら指先でこねても、お茶とザンバーがなかなか練り合わないのに苦労する。しかし、やがてこれをうまくこねることができてザンバーの味がわかって来れば、箸を使って刺身の味を知った西洋人が一人前の日本通になると同様、一人前に西北の民とともになることができるのだ。
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それぞれのチベット体験があり、それぞれのツアンバがある、というところだろうか。
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<地理・気候>
チベットというのは、特異な文明を持っている。その意味で、どこまでがチベットなのか、どこからがチベットなのか、という議論は興味深いものである。
チョルテン(仏塔)が建てられタルチョ(お経を印刷した五色の布)がはためき、人々がマニ車を廻しながらコルラ(巡礼)していればそこはチベットだ、と言われればそういう気もする。
また、青海省を、西寧から青海湖に向かうとき日月山の峠を越えて行く。それまでは、大麦やら裸麦の畑が見えるが、峠を越えると景色は一変し、果てしなくうち続く大草原の世界になる。そこに放牧されているのはヤク。大草原の先には六千メートル、七千メートルの夏も雪を頂いた峰峰。同じ青海省なのだが、「ああ、チベットの世界に入ってきたなあ」と思う。
ただここでは、「チベットとは何か」という関心はとりあえず措き、行政単位としてのチベット自治区に的を絞った上で、その地理的な状況だけを一瞥することにしよう。
北の境を画すのは崑崙山脈。南の境を画すのはヒマラヤ山脈。西にあるのはパミール高原。東にあるのは雲貴高原。何ともスケールが大きい。
東西に2000キロ。南北に1000キロ。面積は123万平方キロ。
人口は250万人というから、日本と較べ、面積で三倍、人口で五分の一、ということになる。
地理的状況を説明しようとするとき、チベットの場合、他の地区にはない数字が出てくるから面白い。それは、高度である。
自治区全土の平均高度は4000メートル。全体的には東から西に行くほど高くなってゆく。主な都市の高度は次の通り。
| ラサ | 3658メートル |
| ギャンツェ | 4040メートル |
| シガツェ | 3836メートル |
| ダム(樟木) | 2350メートル |
| タルチェン | 4585メートル |
| ドルマ・ラ | 5630メートル |
| マナサロワール | 4588メートル |
| アリ(獅泉河) | 4280メートル |
気候については、高原性寒冷地帯に属す。基本的には寒い。夏の旅行でもセーターの用意は必要。
季節は、夏と冬の二季。夏は短く、5月〜9月。冬は10月〜4月。
また、雨期の乾季がある。一般の旅行シーズンである6月〜9月がちょうど雨期と重なるが、一日中しとしと降るというよりもにわか雨のように一気に降る雨である。
ラサでの平均気温は次の通り。単位は℃。
| 月 |
一月 |
二月 |
三月 |
四月 |
五月 |
六月 |
| 平均気温 |
-2.3 |
1.1 |
4.5 |
8.3 |
12.3 |
15.4 |
| 平均最高 |
6.8 |
9.2 |
12.0 |
15.7 |
19.7 |
22.5 |
| 平均最低 |
-10.2 |
-6.9 |
-3.2 |
0.9 |
5.1 |
9.2 |
| 月 |
七月 |
八月 |
九月 |
十月 |
十一月 |
十二月 |
| 平均気温 |
15.1 |
14.3 |
12.7 |
8.2 |
2.3 |
-1.7 |
| 平均最高 |
21.7 |
20.7 |
19.6 |
16.4 |
11.6 |
7.7 |
| 平均最低 |
9.9 |
9.4 |
7.6 |
1.4 |
-5.0 |
-9.0 |
(資料提供:中国国家旅游局)
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<高山病>
一般に、日本人の場合、2400メートルの地点で五人に一人は高度障害を起こすという。症状としては、頭痛、めまい、倦怠感、吐き気などである。
ラサの標高は3658メートル。この高さだと、ほぼ百パーセント、何らかの高度障害があるはずである。
空気の量は、海抜ゼロメートルの地点に較べ、3000メートルで70%に、5500メートルで50%になる。
カイラス巡礼の最高地点はドルマ・ラ。ここは、5630メートル。つまり、空気の量は、半分になる。したがって酸素の量も半分になる。息苦しいのは当然で、普通に呼吸をしても、平地の半分しか酸素を吸入していないことになる。
この高度では、チベット人のなかにも高度障害で苦しむ人が出てくる。高山病のチベット人なんて、船酔いの船長さんみたいなもので、ハタで見ればおかしなものだが本人にとっては深刻だ。
高度障害に対して敏感な人、鈍感な人。まったく個人の差だという。性別、年齢、職業、年収などに関係なく、個人の差としてあるという。また、ラサ辺りであれば、二三日もすれば大抵馴化して高度障害は消えて行くものだ。このスピードにも個人差がある。早く感じた人が早く馴化するとは限らない。逆もしかり。
頭痛、めまいぐらいならよいのだが、恐いのは高地脳浮腫、高地肺浮腫。ともに命にかかわる。
高地肺水腫: 肺に水分が浸み出す。呼吸が苦しくなり、呼吸とともにガラガラする音がしたり、せきや血痰がみられる。
高地脳水腫: 平衡感覚を失い、足元がふらつきバランスを崩してころぶ、意識を失うなどの症状が出現する。
「日本旅行医学会」のホームページによると、高山病の予防・治療に効果のある薬として三つを挙げている。
@アセタゾラミド(商品名 ダイアモックス):「この薬を高地に上がる前に飲んでおけば山酔いを防止することができます。また症状が現れてからでも服用すれば早急に改善されます。この薬の作用により、血液が酸性となるために呼吸が刺激されて増加し、その結果高地に順応することができます。」
Aデキサメタゾン:「副腎皮質ホルモン剤ですが、山酔いと高地脳浮腫の予防と治療に効果があることが知られています。この薬剤により |